斉の歴史
田斉の興隆
斉の歴史 −戦国時代編− を開始するにあたって
筆者は「斉の歴史 −春秋時代編−」を作成するにあたり、『史記』「斉太公世家」をベースにして所々に『史記』列伝や『春秋左氏伝』に見えるエピソードを挿入していくという方法を取った。「戦国時代編」でも同様に、『史記』「田敬仲完世家」をベースにして『戦国策』や列伝の内容を挿入していくという方法を取るつもりだが、春秋史とは異なって戦国史の場合には色々な問題が出てくる。
というのは、『史記』世家の中で戦国諸侯の歴史を記した部分は、同じく『史記』世家の他の部分や列伝、「六国年表」、或いは『戦国策』等の書物の記述と比較した場合、紀年について矛盾が所々に見られる。例えば同じ事件についての記述を取り出してみても、書物によってその起こった年代が異なっているといった具合である。また、後で本編に登場する斉の威王・宣王についても、元来は威宣王という一人の王を指したのであるが、それを後代の人々が威王・宣王と二人の王がいたと勘違いしたというような説もある。
現在の所、多くの学者が正しい戦国史の紀年を導き出そうと尽力しているが、その紀年も学者によってマチマチのようである。また、ある一人の学者の説だけを取り上げてみても、それが将来修正を加えられていくことは充分にあり得る。
そこで今回の戦国時代編では、便宜的に君主の在位年数などの紀年は全て「田敬仲完世家」の表記に従い、その年代が西暦で何年にあたるかは、台湾中央研究院の漢籍電子文献に収録されている『史記』「六国年表」に付載の西暦年に依ることにした。しかし上記のような理由で、これらは必ずしも正しい年代を表しているとは限らない。あくまでおおよその年代をつかむための目安と考えてくれれば幸いである。
康公の十九年(前386年)、事実上斉の国君となっていた田和(でんか)は、周王より正式に斉侯に封じられた。彼は康公を廃して正式に即位した。これが田斉の太公である。太公が即位して二年で没すると、その子の田午が桓公として即位した。
桓公の五年(前380年)、韓は秦と魏の侵略を受け、斉に助けを求めて来た。桓公は重臣たちを召して韓の要請に応じるべきかどうか尋ねた。忌(すうき=鄒忌)は「要請に応じない方がよいでしょう。」と言い、段干朋(段干綸=だんかんりん)は「韓を助けねば、すぐに魏に降伏してしまうでしょう。要請に応じるべきです。」と言った。しかし田臣思は主君にこう奨めた。「秦・魏が協力して韓を攻めれば、趙・楚が必ず韓を助けようとするでしょう。他国が争いあっている隙に、我が君は北方の燕に攻め込めばよろしい。」
桓公は彼の策を採用した。そして韓の使者に援軍を送ると承諾したのである。韓は斉の救援が得られると信じて秦・魏と戦い、やがて趙・楚が韓に援軍を送った。こうして他国が干渉出来ない状態になった後で、桓公は軍を燕に攻め込ませ、桑丘の地を得たのであった。
桓公は在位六年目(前379年)で没し、子の因斉が威王として即位した。同じ年に元の斉侯であった康公も没した。彼は浜辺の町を領邑として与えられ、細々と祖先の祭祀を続けていたが、その町も田氏の領土となった。