斉の歴史
斉孫子、威王の知遇を得る
威王の二十三年(前356年)、威王は魏の恵王と平陸で会盟を行った。その翌年に二人の王はやはり会盟を開き、その後でともに狩りをすることになった。その時に二人の王がそれぞれどんな宝物を持っているかということが話題にあがった。恵王が言う。「私は小国の君主ですが、それでも直径一寸ほどの宝珠で、それぞれ辺り一面に目映い光を放つ物を十個ばかり持っています。斉は天子の国に匹敵する万乗の大国ですから、さぞかし貴重な宝物をお持ちのことでしょうな。」
それに対して威王が答えるには、「私はそんな大層な宝物など持ってはおりませんが、強いて言えば四つの宝物が挙げられます。」「と言いますと?」「私の臣下に檀子という者がおりますが、この者は南側の国境を守って楚の軍を退け、彼のために南方の十二諸侯が来朝して来ました。また田(でんぱん)という者がおりますが、この者は高唐の地を守って趙の侵略を退けました。また
夫(けんぷ)という者がおりますが、徐州の地を燕・趙の侵攻から守り、なおかつ彼を慕って両国から七千戸もの人々が我が国に移住して来ました。更に種首という者がおりますが、国内の盗賊をよく取り締まり、人民は彼を恐れて道の落とし物すら拾おうとしません。この四人の家臣は何にも勝る私の宝物です。」
恵王は威王の言葉を聞いて恥じ入り、ほうほうの体でその場から立ち去った。
さて、斉国出身の遊説家で孫(そんぴん)という者がいた。これより百年程前に呉に仕えた孫武の子孫と言われている。彼は
涓(ほうけん)とともに同じ師匠に就いて兵法を学んでいた。学識では孫
の方が上回っていたが、
涓の方が先に魏の恵王のもとで仕官を果たした。彼は孫
が魏に仕えれば自分の出世の妨げになろうし、他国に仕官すれば魏国の強大な敵になることは間違いないと考え、そうなる前に始末してしまおうとした。そこで彼を恵王に推薦すると偽って都の梁に呼び寄せて、やって来たところを無実の罪を着せて捕らえてしまった。孫
は足切りの刑に処されたうえに顔に入れ墨を施され、罪人として監禁されてしまった。
そんな折り、斉国の使者が梁に到来したのであるが、孫はこっそりその使者に面会し、自分の窮状を訴えた。使者はいたく彼に同情し、帰国する際にこっそりと彼を連れ出して行った。斉に着くと田忌将軍に引き合わされ、彼のもとで食客としてすごすこととなった。
ある日、田忌は斉の公子たちと競馬の会を開き、それぞれの勝負ごとに金を賭けることになった。孫は田忌の馬も公子たちの馬も、能力的にはそう大差無いはずだと考え、田忌に次のように進言した。「まず殿の馬を、その能力に合わせて上・中・下の三等級にお分けなさい。そのうえで殿の下の馬を相手の上の馬と走らせ、上の馬を相手の中の馬と、そして中の馬を相手の下の馬と走らせれば、二勝一敗で必ず賭けに勝ち越すことができます。」田忌は孫
の提案にはたと膝を打ち、彼の言う通りに馬の走る順番を組み合わせた。
果たして当日になって、田忌は二勝一敗で勝ち越し、王や公子たちから多くの賭け金を巻き上げることができた。そして改めて孫の知謀に感心し、彼を威王に推挙したのである。威王は孫
にいくつか兵法の質問をして彼の能力の高さを悟り、彼を兵法の師とすることにしたのであった。