斉の歴史
桂陵の戦い
威王の二十六年(前353年)、魏の恵王が邯鄲を包囲し、趙の使者が斉に助けを求めて来た。そこで威王は諸臣を集めて趙を助けるべきかどうかを問うた。宰相の忌は「趙を助けない方がよろしい。」と主張したが、段干朋(段干綸)は「趙を助けなければ、我が国に不利益を招くことになります。」と主張した。威王は彼の意見に興味をもち、「不利益を招くとはどういうことか?」と尋ねた。
段干朋は言う。「魏が邯鄲を陥落させたところで、我が国に一体どのような利益がありましょう?ただ我が国の大軍を趙の郊外に駐屯させるだけで、魏軍はあきらめて邯鄲の包囲を解くでしょうに。そうすれば我が軍の兵隊を一人も損なわずに、趙に対して援軍を出したという恩を売ることが出来るのですぞ!」「うむ…」威王の気持ちが動く。
それを察し、段干朋は続けて言った。「これより更に良い策がございます。まず魏が邯鄲を攻めている間に、魏の領地である襄陵に進攻してその国力を疲弊させるのです。魏が邯鄲を落とした頃には、その疲弊も最高潮に達しているでしょうから、即座に魏に進攻すればよろしい。この計を用いれば趙も魏も共に国力を弱めることになり、まさに一挙両得であります!」威王は大いに感心して、段干朋の策を採用することにした。
この会議が終わった後に、公孫閲という謀士が忌のもとにやって来て言った。「あなたはどうして趙を助けて魏を伐つことに賛成しなかったのですか?田忌を魏討伐の大将として推薦なさりませ。もし田忌が手柄を立てれば、奴を推薦したあなたにも功績があったことになります。もし敵軍に敗れれば、田忌めは戦死するかもしれませんし、生還しても敗戦の罪を奴になすりつければよろしいではありませんか!」
忌は「それもそうだ。」と納得し、威王に田忌を討伐軍の大将とするよう言上した。
忌と田忌とはお互いに仲が悪かったのである。
田忌は威王より命令を受けると、孫を軍師として同行させて細かい策を練らすことにし、襄陵へと攻め入った。孫
は不具者であったので、幌馬車に乗り込んで座して指揮を執った。
数ヶ月して魏が邯鄲を陥落させたとの報が入ると、孫は田忌に、手薄になっているはずの魏の都・大梁に攻め込むよう提案した。斉軍が都に攻め入る様子を見せたことで、邯鄲を落としたばかりの魏軍は大いに動揺し、すぐさま邯鄲の包囲を解いて都に帰還しようとした。孫
は更に田忌に進言して、この疲弊しきった魏軍を桂陵の地で迎え撃たせたのである。結果、斉軍は魏軍を大いに打ち破ることが出来た。
この戦いで勝利したことにより、斉は諸侯の中で最も強盛となり、自ら王と称して天下に号令するようになったのである。