斉の歴史
田忌の出奔
威王の三十五年(前344年)、斉の宮廷では、魏との戦いに大功を建てた田忌が権勢を得るようになった。忌は公孫閲に、何とかして田忌を陥れられないものかと尋ねた。そこで公孫悦は早速策謀を練り、その概要を
忌に説明した。彼はこの策謀に満足し、実行することにしたのである。
忌はまず家来に十金もの大金を持たせて市に行かせ、その金を易者に渡して次のように言わせた。「これこれ、私は田忌様の家臣なのだがね、主君から『私は魏と三度戦ったが三度とも勝利を収め、我が名声は天下に轟くようになった。そこで大事を決行しようと思うのだが、易者にその吉凶を尋ねて参れ。』と言われたのだよ。」そこで易者が占って結果を出したところ、別の
忌の家来が何食わぬ顔をしてやって来て、その易者と占いを以来した者とを引っ捕らえた。
忌は易者と占いを依頼した家来を王宮に連れ出して来て、威王の前で「田忌が謀反の成否を占わせたのだ。」と証言させた。田忌は
忌に陥れられた事を知ると、徒党を率いて都の臨
を攻めて
忌を捕らえようとしたが、攻め破ることが出来ず、そのまま出奔して楚に亡命したのであった。
その後斉の宮廷では再び忌が権勢を振るうようになったが、田忌が今度は強大な楚を後ろ盾にして斉に帰国するのではないかと、心配するようになった。
そこで楚の策師で、斉に遊説していた杜赫(とかく)に、田忌が楚に留まるよう取りはからって欲しいと依頼した。彼はその依頼を快く承知し、楚の宣王に次のように進言した。「忌が我が楚に友好的でないのは、田忌が我が国の力を後ろ盾にして斉に帰国するのではないかと疑っているからです。そこで殿は田忌を江南の地に封じて、彼を斉に帰さず、楚に土着させることをお示しなさいませ。そうすれば
忌は我が国に恩を感じて親楚派となりましょう。田忌も封を賜れば必ず殿に恩を感じ、もし斉に帰れば、やはり親楚派となりましょう。」楚の宣王はその案を採用し、田忌を江南の地に封建したのである。
翌三十六年(前343年)に威王が没し、その子の辟彊が宣王として即位した。宣王は、田忌が忌に欺かれた事を知ると、田忌を呼び戻して再び将軍としたのであった。