斉の歴史
馬陵の戦い
宣王の二年(前341年)、魏が韓を侵略し、韓が斉に助けを求めて来た。そこで宣王は諸臣を呼び出し、韓を助けるべきかどうかを問うた。忌は「関わらない方がよろしゅうございます。」と主張し、田忌は「早く助けなければ、韓は魏の領土となってしまいます!」と出兵を主張した。また孫
は、「今すぐに韓を助けるというのでは、まだ勢いのある魏兵と戦うひとになり、我が国にとって良くありません。韓・魏の兵がともに疲弊するのを待って出兵されるとよろしいでしょう。」と意見し、結局宣王は彼の意見に従うことにした。
韓は魏軍に五回戦いを挑んだが、いずれも勝つことが出来ずに、再び斉に助けを求めて来た。そこで宣王は、田忌と田嬰を将軍とし、孫を軍師として大梁へと出陣させた。対する魏軍の将軍は、あの
涓である。彼はすぐさま韓から軍勢を引き上げ、斉軍に対することにした。
孫は田忌に進言した。「魏の兵は我が国の兵を、臆病者揃いだと侮っています。そこで魏の国境を越えましたらまず十万人分の竃(かまど)を作らせ、次の日には半分の五万人分に減らします。その次の日には三万人分まで減らし、日ごとに我が軍の兵が逃亡していると敵に思わせて、油断させるのです。」田忌は彼の策に従うことにした。
涓は軍を率いて斉軍の後を追跡していたが、日ごとに斉兵の竃の数が少なくなっていく。それを見て、「やはり斉兵は臆病者ばかりだな。たった三日で兵卒の逃亡は半ばを越えたぞ!」と歓喜した。そこで彼は精鋭の騎兵のみを率いて、昼夜兼行で斉軍を追跡することにした。
さて、孫は魏兵を馬陵の地で迎撃することにした。馬陵の道は険しく、道幅が狭い。ここに彼は伏兵として弩を持った兵卒一万人を潜ませ、「日が暮れて灯が見えたら一斉に発射せよ。」と命じた。そして大木を伐らせて道を塞ぎ、木の幹を削って「
涓この木の下に於いて死す」と書かせた。
涓は果たして日が暮れてから馬陵に入り、大木が道を塞いでいる所までたどり着いた。彼は一本の木に何やら文字が書いてあるのを見つけて、従卒に灯を持たせてその木まで近付いたが、文を読み終わったかと思うと、一斉に弩が発射されて魏軍は大混乱に陥った。
涓は孫
の策に陥ったことに気づき、「とうとうあやつに名を成さしめたわ!」と叫んで、自ら首を刎ねた。
斉軍は勢いに乗って魏軍を殲滅し、軍に同行していた魏の太子申を生け捕って本国に引き揚げた。孫はこの戦いに勝利したことによって、彼の名は天下に喧伝され、彼の兵法書も孫武の『孫子』とはまた別に、『斉孫子兵法』、あるいは『孫
兵法』として世に伝えられることとなった。
その後、三晋の王は、それぞれ田嬰を頼り、博望の地で宣王と会盟を交わした。