斉の歴史
稷下の学
宣王の七年(前336年)、王は田嬰を韓・魏に派遣して両国の国主を説得させ、魏の恵王・韓の昭侯と平阿の南で会盟した。翌年再び甄(けん)の地で会盟を開き、その年に恵王が没した。更にその翌年、魏の襄王と徐州で会盟を開き、お互いに王号を称することにした。
ところで宣王は遊説家を優遇したことで有名である。黄老の学を学んだ慎到・田駢・接子・環淵、あるいは淳于や、
氏の族で陰陽家を創始した
衍や
ら七十六名もの遊説家たちが王より大夫に任じられ、立派な邸宅を与えられた。その様子を見て、数百・数千人もの遊説家が斉に到来し、斉の国では大いに学問が栄えたと言う。彼らは政治に与らず、臨
の北に位置する稷山の麓、すなわち稷下で日々議論に明け暮れた。これを稷下の学と呼ぶ。(一説に臨
の城門を稷門と呼び、門の辺り一帯を稷下と呼んだとも言われる。)
宣王に面会した遊説家の中に、有名な蘇秦もいた。彼はまず燕・趙に仕官を求め、強大な秦に対抗するために、他の六国を同盟させるという合従策を提唱し、趙の使節として韓・魏の王に合従を説き、それから斉にやって来て宣王と会見したのである。
蘇秦は言う。「斉の国は、南は泰山、東は琅邪の山、西は清河、北は渤海と四方を要害に囲まれております。また臨の都は富み栄え、兵卒も精鋭揃いと聞き及んでいます。しかるに今、宮廷では西方の秦に仕えようという意見が出ているとか。秦が斉に侵略してきたとしても、要害を越えることは容易ではなく、更に背後を韓・魏の兵に襲われることを常に気にしなければなりません。そのように秦に対して圧倒的に有利な状況にあることに気づかず、秦に降伏しようとするとは何事でありましょうか!」
宣王は自分の不明を恥じて言った。「あなたの言う通りである。あなたが趙侯の言葉を告げられたからには、私も国を挙げてそれに従うことにしよう。」
その後合従策は秦の連衡策のために解体し、蘇秦は趙を出て燕に亡命した。しかし燕でも易王の母と密通し、その事が王に知られて居づらくなり、「斉に赴いて燕のために利益を計ることにいたします。」と言い残し、宣王を頼って斉に亡命してきた。宣王は蘇秦を客分の大臣として待遇したのである。
その宣王も在位十九年にして没した。その跡を息子の地が継いだが、これが王(閔王)である。
王も父と同様に蘇秦を重用したが、彼は亡き宣王の墓として立派な宮殿や庭園を造るよう主君に進言し、斉の国力を疲弊させようとした。
斉の国では多くの者が蘇秦と競って主君の寵を争い、ある者が刺客を雇って蘇秦を暗殺しようとした。暗殺は未遂に終わったものの、蘇秦は重傷を負い、刺客にも逃げられてしまった。自分の命が長くはないと悟った蘇秦は王にこう言い残した。「私が死んだら、死体を車裂きにして市場にさらし、『蘇秦は燕の回し者であった』とお触れを出して下さい。そうすれば必ずや私を傷つけた賊が見つかるでしょう。」
果たして彼のいうようにすると、ある男が「私が蘇秦を殺しました」と恩賞を求めて名乗り出てきたので、王はこの男を死刑にしてしまった。この事は他国にも知れ渡ったが、「斉王が蘇秦のために仇を討ったは良いが、そのやり方が酷すぎる。」と評判が悪い。更に蘇秦が本当に燕の利益のために働いていたことが明らかになると、
王は燕の国と蘇氏の一族を強く憎むようになった。そして今度は秦の国と、秦のために連衡策を進める張儀と接近するようになったのである。