斉の歴史
張儀、連衡を説く
王の元年(前323年)、秦の恵王(恵文王)は張儀に命じ、斉・楚の重臣と齧桑(けつそう)の地で会盟を行わせた。三年(前321年)、叔父の田嬰を薛に封じた。四年(前320年)、
王は妻を秦から迎えて娶った。七年(前317年)、斉は宋とともに魏を攻め、観沢の地で魏軍を打ち破った。
更に十二年(前312年)、斉は再び魏を攻めた。同じ年、楚は蘇秦の合従策の名残で、以前から斉と同盟を結んでいたが、張儀の謀略によって楚の懐王は斉と絶好することを決意した。懐王は、張儀と敵対している重臣・田軫(でんしん・=陳軫)の反対を押し切って将軍・屈丐(くつかい)に秦を攻撃させたが、秦は斉と同盟を結んで楚の軍を打ち破り、丹陽と漢中の地を得た。
張儀は秦の連衡策が各国でまだまだうまく機能していないと考え、自身が遊説して各国の君主に連衡を説いて回ることにした。まずは秦に降伏したばかりの楚の懐王と会見し、屈原らの反対意見を押し切って秦と同盟させることに成功した。次に韓を訪れてやはり王を首尾良く説得し、その次に斉の王のもとにやって来た。
彼が王に対して言うには、「合従を説く者どもはよく、『斉は四方を要害に囲まれ、国は富み栄えて兵卒は勇ましい。更に間を韓・魏・趙の三国に挟まれているので、秦がいくら強国であると言っても斉をどうすることも出来ない。』などと主張していますが、本当にそうでしょうか?私にはそうは思えません。かつて斉と魯とが三度戦い、三度とも魯が勝利したことがありました。しかしその後魯は勢力が衰退する一方で、今では滅亡が目の前に迫っているという有様。これはどうしたことでしょう?そもそも魯の国土・国力が斉と比べて小さいからです。」
張儀は更に続けて言う。「現在の秦と趙の関係も、この斉と魯の関係と同じであります。趙は水のほとりと番吾の地での二度の戦いで秦に勝利しましたが、四度戦ううちに趙は数十万の兵卒を失い、領土はかろうじて邯鄲の都を残すのみ。戦争に勝ったのに国は滅亡に瀕しているのは何故でしょうか?やはり趙の元々の国土・国力が秦と比べて小さいからです。更に、楚は秦の王女を娶って兄弟の国となりましたし、韓・魏・趙の三国はそれぞれ領地を献上して秦に服従しました。斉が秦に背くならば、斉はすぐさま韓・魏・趙の侵攻を受けることになりましょう。そうなれば臨
の都も、半島の即墨の地も王の物ではなくなります。ですから王はよくよく国の方針を考えねばなりますまい。」
王は張儀の言葉を聞いて感心し、「私は辺鄙な地に離れ住んでいるゆえ、今まで国家長久の計など聞いたこともなかった。以後国を挙げて秦に従うことにしよう。」と述べ、秦に漁業や塩田が盛んな土地三百里を献じ、服従することにしたのであった。
張儀はその後趙・燕を回ってやはり秦との同盟を約束させたが、王十四年(前310年)、彼が都の咸陽に帰り着く直前に恵王が亡くなった。張儀は、次いで即位した武王とは前々から折り合いが悪く、諸侯も張儀と武王が仲の良くないことを知って、次々と連衡を取りやめて合従に戻った。特に
王は張儀に騙されていたと分かって、特に彼を憎んでいた。彼は蘇秦と同様、「魏に亡命したふりをして、秦のために利益を計って見せます。」と提案して魏に向かった。
張儀は魏の哀王によって宰相に任命された。斉軍はすぐさま張儀の引き渡しを求めて魏に攻め寄せてきたが、王のもとに使者を派遣し、「私は秦王の命で魏に亡命したふりをしているだけである。斉と魏が争っている隙に秦は韓を討ち、周に迫って伝国の宝器を差し出させる手はずになっている。」と明かすと、斉軍はすぐに撤退した。その後、張儀は魏に亡命してから一年で亡くなった。