斉の歴史
東帝と西帝
王の二十九年(前295年)、趙が主父(武霊王)を殺した。同年、斉が趙を助けて中山国を滅ぼした。
王の三十年(前294年)、田甲という男が王に対して反乱を起こした。この反乱はすぐに鎮圧されたが、
王は孟嘗君も田甲に加担していたのではないかと疑った。孟嘗君が無実であったことはすぐに明らかになったが、孟嘗君はそれをきっかけに、病気と偽って引退を申し出、領地の薛に引きこもっててしまった。
以後、斉ではしばらく孟嘗君に代わり、秦から亡命してきた呂礼が宰相となった。呂礼と孟嘗君は政敵同士であったため、孟嘗君は秦の宰相であり、やはり呂礼と仲の悪かった穣侯(魏冉)をけしかけ、秦に斉を攻めさせた。結果、呂礼は斉から逃亡してしまった。
王の三十六年(前288年)、秦の昭王(昭襄王)の提案により、これ以後斉王は東帝と称し、秦王は西帝と称することにした。蘇代(蘇秦の弟)は
王が帝号を称したことを知ると、燕より来朝して王にこう忠告した。「斉秦がともに帝号を称したとあれば、天下の諸侯は国力の強い秦を尊び、斉を軽んじるのは当然の成り行きでございましょう。逆に斉が帝号を捨てたとすればどうでしょう?諸侯は斉を支持し、強圧的な秦を憎むのではありますまいか?」
蘇代は続けて言う。「王は帝号を称する際に、秦王とともに趙を討つことを約束されましたが、両国が協力して趙を討つのと、斉が単独で桀宋(当時の宋王偃は暴虐で知られており、他国からは夏の桀王にちなんで桀宋と呼ばれていた。)を討つのとでは、どちらが有益でありましょう?」彼の言により、王は帝号を捨て去って王に戻り、諸侯の心をつかんで秦に対抗することを決意した。一方の秦でも斉と同様に帝号を廃し、元のように王号を称することにした。
王の三十八年(前286年)、王は斉の軍を宋に攻め込ませることを決意した。それを聞いた秦の昭王は、「わしの断りもなく宋を攻めるとは何事だ!」と激怒したが、蘇代が昭王を次のようになだめた。「斉が宋を平定すれば、楚や魏はより強大になった斉を恐れ、秦によしみを通じてくるでしょう。それに斉が宋を平定したとしても、結局は秦の協力を得ないと何も出来ますまい。」
「しかし斉という国は時に合従し、時には連衡するといった具合で方針に一貫性が無い。」と昭王。「それは策士どもが斉秦両国の王に良からぬ事を吹き込み、常に斉秦を離間させておこうとしているからです。三晋と楚にとってはその方が都合がよろしいのでしょう。なぜ斉秦は協力して三晋と楚の連合に当たろうとしないのでしょうか?」この蘇代の言葉によって、昭王は斉の宋侵攻を承諾することに決めた。
そこで王は出兵して遂に宋を滅ぼした。宋の王偃は魏の温の地に亡命し、その地で没した。
王はこれ以後楚や三晋を侵略し、鄒や魯の君を家臣とし、周の天子に取って代わろうとする勢いである。国内でも邪魔者の孟嘗君を始末しようと考え、孟嘗君は身の危険を感じ取って魏に亡命してしまった。彼は魏の昭王により宰相に任じられた。