blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


襄公、魯の桓公夫人と密通す


さて、斉侯の位は更に献公から武公rei2.gif (119 バイト)(れいこう)・文公成公荘公釐公(きこう)(注1)と受け継がれ、そしてその子の諸児(しょげい)が襄公(じょうこう)として即位した。紀元前697年のことである。

襄公はいわゆる暴君であり、むやみに人を殺し、女色にふけり、よく大臣を欺いた。また彼は従兄弟の公孫無知が、生前の父・釐公からかわいがられていたのが気に入らなかった。それで即位すると公孫無知の待遇を引き下げたので、襄公は彼から恨まれるようになった。(注2)

また襄公は、かつて自分の妹と密通していた。彼女はその後、桓公のもとに嫁いで文姜と呼ばれるようになった。その文姜が夫の桓公とともにに訪れた時、襄公は再び彼女と密通した。しかしその事は桓公に知られてしまった。そこで襄公は、彼を酒宴に招いて酔いつぶれさせ、怪力を持つ公子彭生(こうしほうせい)に命じて彼を馬車に運ばせ、その折に体を締め付けて殺させた。当然、の家臣たちは怒り狂い、襄公を責め立てた。仕方が無いので彼は下手人として公子彭生を処刑し、の人々をなだめたのであった。文姜はこの状況の中、に帰れるわけもなく、に永住することとなった。(注3)

その後、襄公沛丘(はいきゅう)という土地(注4)で狩猟をしていたところ、大きなブタに出会った。従者の一人がこれを見て、「このブタは公子彭生の亡霊だ!」と騒ぎ出した。襄公は「そんなはずはあるまい!」と腹を立ててこれを矢で射たところ、ブタは突然人間のように立ちあがっていなないた。襄公は大変に驚いて馬車から落ち、足に怪我を負った上に靴を無くしてしまった。そしてうっぷん晴らしとばかりに靴係のfutsu.gif (115 バイト)(ふつ)という男(注5)を鞭打った。

公孫無知襄公の負傷を聞き、襄公を倒す絶好の機会であると考え、かねてから襄公を恨んでいた連称・管至父(かんしほ)の二人の大夫を引き連れて、宮殿を襲撃した。主君に鞭打たれた靴係の男はこの様子を見て、逆に主君のために逃げる時間をかせいでやった。しかし結局、襄公公孫無知の手の者に殺され、襄公の従者たちも全員戦死してしまったのである。そして無知は、自らの君主となった。(注6)


注釈

(1)『左伝』では「僖公」(きこう)とする。『史記』では、に限らず「僖公」を全て「釐公」と表記する。

(2)公孫無知釐公からかわいがられ、それによって襄公の不興を買ったことは『左伝』荘公八年『管子』大匡篇に同様の記述がある。

(3)この段の話は『左伝』桓公十八年に同様の記述があるが、内容は斉世家より簡潔である。『公羊伝』桓公十八年・荘公元年にもこれに関連した記述がある。

(4)沛丘『左伝』では貝丘とする。『春秋左伝注』では、今の博興県の南にある貝中聚とする。

(5)futsu.gif (115 バイト)は、『左伝』ではとなっている。

(6)襄公公子彭生の亡霊に遭遇し、公孫無知の一派に弑殺されたことは、『左伝』荘公八年『管子』大匡篇にも同様の記述がある。


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