blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


管鮑の交わり


さて、話は襄公がまだ生きていた頃に戻る。の国に管夷吾管仲)と鮑叔牙鮑叔=ほうしゅく)の二人の若者がいた。二人は友人同士であり、お互いのことを知り尽くしていた。管仲は家が貧しく、ある時鮑叔と一緒に商売をし、そのもうけの配分で自分の取り分を多くしたが、鮑叔は文句を言わなかった。また管仲は三人の主に仕えて三度とも追い出される、あるいは三回いくさに出て三回とも逃げ帰るといった問題児であったが、鮑叔は彼の行動にはそれなりの理由がある事を知っていたので、管仲をバカにしたりはしなかった。(注1)

その後、管仲襄公の弟・公子糾(こうしきゅう)の守り役に、鮑叔はやはり襄公の弟・公子小白の守り役となった。襄公はかねてから横暴な振る舞いをしており、その弟たちは後難を恐れた。そのため、公子糾は母の実家であるの国へ亡命し、公子小白kyo.gif (107 バイト)(きょ)国へと亡命し、管仲鮑叔の二人もそれぞれの主人に着いて行った。そうこうしているうちに襄公公孫無知に暗殺され、(前章を参照のこと)代わっての君主になった公孫無知も、彼に恨みを持つ、雍林(ようりん)の地に住む男に暗殺された。(注2)

重臣の氏(kei.gif (120 バイト)=こうけい)と氏は次の君主に誰を立てるかを議論した結果、以前から自分達と親しくしていた公子小白kyo.gif (107 バイト)から呼び寄せ、即位させる事にした。しかし国も公孫無知の死を聞くと、兵を出して公子糾に送らせた。管仲は別動隊を率いて公子小白に向かうのを阻んだ。管仲小白の戦車(戦争用の馬車)を見かけるや、彼に向かって矢を放った。矢は的を外れて小白の帯留めに当たったが、小白はとっさに倒れこんで死んだように見せかけた。管仲はそれを見て仕留めたと思いこみ、意気揚揚と引き上げた。

公子糾の軍は小白が死んだ事を聞くと安心して、ゆっくりとに向かった。小白はと言えば、霊柩車に乗って引き続き死んだふりを続け、に急行した。そして公子糾に着いた頃には、小白斉侯として即位していた。彼こそが有名な桓公である。桓公の軍は、公子糾を連れたの軍を追い返した。紀元前685年、春のことである。

その年の秋、軍は軍と乾事(かんじ)の地で戦い、軍を打ち破った。(注3)そして未だに匿われている公子糾の処刑と、その守り役である管仲召忽(しょうこつ)の身柄引渡しを求めた。の人は思い悩んだ結果、公子糾を処刑した。召忽は生き恥をさらすぐらいならと自殺したが、管仲はこのの要求にピンときて、敢えて捕虜としてに引き渡されることを望んだ。

管仲の予測通り、鮑叔は主君に彼を補佐役として推薦しようとしていたのである。桓公は仇に等しい管仲を用いることを嫌がったが、結局は「殿が覇者になるには、管仲の力が必要ですぞ」という鮑叔の説得におれ、彼を丁重に迎え入れ、大夫に取りたてて国政を委ねることにしたのであった。(注4)


注釈

(1)この段の話は、『史記』管晏列伝よりここに挿入した。

(2)この段の話は『左伝』荘公八年・九年、『管子』大匡篇にも同様の記述がある。雍林『左伝』では雍廩とする。諸注を参照すると、この雍林を地名とするか人名とするかで意見が分かれている。

斉世家の原文では「斉君無知 雍林に游ぶ。……雍林の人 襲ひて無知を殺す。」とあり、明らかに地名としている。しかし『左伝』荘公九年では「雍廩 無知を殺す。」とあり、荘公八年に「初め、公孫無知 雍廩を虐ぐ。」とあり、人名としており、杜預は「雍廩の大夫なり」と注釈し、『集解』に引く賈逵の注には「渠丘葵丘)の大夫なり」とある。また『史記』でも秦本紀には「雍廩 無知管至父等を殺す……」とあって、人名とも取れるような書き方をしており、地名説はやや分が悪いようである。

ここでは『史記』斉世家をベースとしている都合上、雍林を地名と解しておく。

(3)乾時の地。今の山東省博興県の南。杜預の注によれば、元々この地には時水という川の支流が流れていたが、これが干上がって「乾時」と呼ばれるようになったという。この乾時の戦いについては『左伝』荘公九年に簡単な記述がある。

(4)『左伝』荘公九年にも公子糾の処刑・召忽の自殺・管仲から引き取り、桓公の輔佐として登用したことについての記述があるが、斉世家のそれと比べたら簡潔な記述である。他に『国語』斉語・『管子』大匡・小匡等にも断片的に記述があり、これらを組み合わせて斉世家のこの部分の著述が行われたと思われる。管仲から引き渡されてきたことについては、魯世家にも記述がある。

余談であるが、鮑叔の子孫はこれ以後も高・国・陳・崔・慶氏といった名族と並び、の世卿として約二百年に渡って存続した。鮑国・鮑牧等彼の子孫の名が斉世家『左伝』に散見される。彼の子孫が造ったとされる青銅器に[素命haku.gif (125 バイト)(そはく・また斉子仲姜haku.gif (125 バイト)とも呼ばれる。)・hou3.gif (124 バイト)氏鐘がある。これらの銘文に「hou3.gif (124 バイト)」「hou3.gif (124 バイト)」といった語が記されており、このhou3.gif (124 バイト)(鞄)が「」の仮借であると考えられている。

参考文献……白川静『金文通釈』三八−二一六(『白鶴美術館誌』第三八輯)


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