斉の歴史
管鮑の交わり
さて、話は襄公がまだ生きていた頃に戻る。斉の国に管夷吾(管仲)と鮑叔牙(鮑叔=ほうしゅく)の二人の若者がいた。二人は友人同士であり、お互いのことを知り尽くしていた。管仲は家が貧しく、ある時鮑叔と一緒に商売をし、そのもうけの配分で自分の取り分を多くしたが、鮑叔は文句を言わなかった。また管仲は三人の主に仕えて三度とも追い出される、あるいは三回いくさに出て三回とも逃げ帰るといった問題児であったが、鮑叔は彼の行動にはそれなりの理由がある事を知っていたので、管仲をバカにしたりはしなかった。(注1)
その後、管仲は襄公の弟・公子糾(こうしきゅう)の守り役に、鮑叔はやはり襄公の弟・公子小白の守り役となった。襄公はかねてから横暴な振る舞いをしており、その弟たちは後難を恐れた。そのため、公子糾は母の実家である魯の国へ亡命し、公子小白は(きょ)国へと亡命し、管仲と鮑叔の二人もそれぞれの主人に着いて行った。そうこうしているうちに襄公は公孫無知に暗殺され、(前章を参照のこと)代わって斉の君主になった公孫無知も、彼に恨みを持つ、雍林(ようりん)の地に住む男に暗殺された。(注2)
重臣の高氏(高=こうけい)と国氏は次の君主に誰を立てるかを議論した結果、以前から自分達と親しくしていた公子小白を
から呼び寄せ、即位させる事にした。しかし魯国も公孫無知の死を聞くと、兵を出して公子糾を斉に送らせた。管仲は別動隊を率いて公子小白が斉に向かうのを阻んだ。管仲は小白の戦車(戦争用の馬車)を見かけるや、彼に向かって矢を放った。矢は的を外れて小白の帯留めに当たったが、小白はとっさに倒れこんで死んだように見せかけた。管仲はそれを見て仕留めたと思いこみ、意気揚揚と引き上げた。
公子糾と魯の軍は小白が死んだ事を聞くと安心して、ゆっくりと斉に向かった。小白はと言えば、霊柩車に乗って引き続き死んだふりを続け、斉に急行した。そして公子糾が斉に着いた頃には、小白は斉侯として即位していた。彼こそが有名な斉の桓公である。桓公の軍は、公子糾を連れた魯の軍を追い返した。紀元前685年、春のことである。
その年の秋、斉軍は魯軍と乾事(かんじ)の地で戦い、魯軍を打ち破った。(注3)そして未だ魯に匿われている公子糾の処刑と、その守り役である管仲と召忽(しょうこつ)の身柄引渡しを求めた。魯の人は思い悩んだ結果、公子糾を処刑した。召忽は生き恥をさらすぐらいならと自殺したが、管仲はこの斉の要求にピンときて、敢えて捕虜として斉に引き渡されることを望んだ。
管仲の予測通り、鮑叔は主君に彼を補佐役として推薦しようとしていたのである。桓公は仇に等しい管仲を用いることを嫌がったが、結局は「殿が覇者になるには、管仲の力が必要ですぞ」という鮑叔の説得におれ、彼を丁重に迎え入れ、大夫に取りたてて国政を委ねることにしたのであった。(注4)
注釈
(1)この段の話は、『史記』管晏列伝よりここに挿入した。
(2)この段の話は『左伝』荘公八年・九年、『管子』大匡篇にも同様の記述がある。雍林は『左伝』では雍廩とする。諸注を参照すると、この雍林を地名とするか人名とするかで意見が分かれている。
斉世家の原文では「斉君無知 雍林に游ぶ。……雍林の人 襲ひて無知を殺す。」とあり、明らかに地名としている。しかし『左伝』荘公九年では「雍廩 無知を殺す。」とあり、荘公八年に「初め、公孫無知 雍廩を虐ぐ。」とあり、人名としており、杜預は「雍廩は斉の大夫なり」と注釈し、『集解』に引く賈逵の注には「渠丘(葵丘)の大夫なり」とある。また『史記』でも秦本紀には「斉の雍廩 無知、管至父等を殺す……」とあって、人名とも取れるような書き方をしており、地名説はやや分が悪いようである。
ここでは『史記』斉世家をベースとしている都合上、雍林を地名と解しておく。
(3)乾時は斉の地。今の山東省博興県の南。杜預の注によれば、元々この地には時水という川の支流が流れていたが、これが干上がって「乾時」と呼ばれるようになったという。この乾時の戦いについては『左伝』荘公九年に簡単な記述がある。
(4)『左伝』荘公九年にも公子糾の処刑・召忽の自殺・管仲を魯から引き取り、桓公の輔佐として登用したことについての記述があるが、斉世家のそれと比べたら簡潔な記述である。他に『国語』斉語・『管子』大匡・小匡等にも断片的に記述があり、これらを組み合わせて斉世家のこの部分の著述が行われたと思われる。管仲が魯から引き渡されてきたことについては、魯世家にも記述がある。
余談であるが、鮑叔の子孫はこれ以後も高・国・陳・崔・慶氏といった名族と並び、斉の世卿として約二百年に渡って存続した。鮑国・鮑牧等彼の子孫の名が斉世家や『左伝』に散見される。彼の子孫が造ったとされる青銅器に[素命](そはく・また斉子仲姜
とも呼ばれる。)・
氏鐘がある。これらの銘文に「
叔」「
氏」といった語が記されており、この
(鞄)が「鮑」の仮借であると考えられている。
参考文献……白川静『金文通釈』三八−二一六(『白鶴美術館誌』第三八輯)