斉の歴史
覇者・桓公
桓公は管仲を得ると、鮑叔・高(こうけい)・隰朋(しゅうほう)とともに国政を司らせた。彼らは兵制を整え、漁業や製塩業などの産業を興し、斉の国力を高めようと努めた。
桓公の五年(紀元前681年)、斉は魯の軍と三度戦い、これを三度とも破った。斉の桓公は魯の荘公と柯(か)の地で和平会談を行うことになった。魯が降伏の誓いをしようとした時、魯の将軍である曹(そうかい)が
突如短刀をかまえて桓公のもとに迫り、「斉が魯から奪った土地を返せ」と脅した。桓公も自分の命が掛かっているので、しぶしぶそれを承知したのである。
会談が終わった後に、桓公は曹を殺して約束を反故にしようと考えたが、管仲は主君をこう諫めた。「例え脅迫されて交わした約束であっても、約束は約束です。曹
を殺してそれを反故にしてしまっては、諸侯の信頼を失ってしまうことになりますぞ!」それを聞いて桓公は考えを改め、約束通りに魯から奪った土地を返してやることにした。諸侯はこれを聞くと、みな斉を信用してその配下に入りたいと考えるようになった。
桓公の七年(前679年)、実力と声望を高めていた桓公は甄(けん)の地で会合を開き、そこで始めて覇者となった。いわゆる春秋五覇の先駆けである。
桓公の十四年(前672年)、陳国から公子完が斉に亡命し、桓公に仕えることになった。彼の子孫は陳氏、後には田氏を名乗り、戦国時代に入ってから呂氏(太公望の子孫)を滅ぼして斉の君主の座を奪うことになるが、これは後の話である。
桓公の二十三年(前663年)、山戎という異民族が燕国を侵略し、燕は覇者である斉に救援を求めた。桓公は兵をまとめて山戎を討伐し、孤竹国まで行って引き返した。燕の君主は桓公を出迎え、自ら斉との国境まで見送りに来たが、その際に国境を越えて斉の領内に入ってしまった。この当時、諸侯が諸侯を見送る場合には、自分の国の国境を出ないという決まりがあったのである。そこで桓公は、燕の君主が足を踏み入れた所までを燕の領地として割譲した。これにより諸侯の間で桓公への声望はますます高まった。
桓公の二十七年(前659年)、桓公の妹・哀姜(あいきょう)は魯の荘公に嫁いで公(びんこう)を生んでいた。しかし哀姜は、夫・荘公の弟にあたる慶父(けいほ)と密通していたのである。彼女はあろう事か、息子・
公を殺させてしまった。そして慶父を魯の君主の位につけようとしたが、家臣はこれに猛反発して荘公の庶子を新しい君主として立て、慶父は自殺を迫られた。哀姜も魯にいられなくなり、
国(ちゅこく)に亡命したのである。桓公は妹が魯の国に混乱をもたらした事に怒り、彼女を
から引き取って処刑してしまった。そしてその遺体を魯に返し、さらし者にさせたのであった。