斉の歴史
桓公、封禅の儀を行わんとす
桓公の二十九年(前657年)、桓公は夫人の一人である蔡姫(さいき)と舟に乗って遊んでいたが、蔡姫はふざけて舟を揺らし、桓公を怖がらせた。桓公は怒って何回もやめるように言ったが、蔡姫は舟を揺らすのをなかなかやめなかった。この事があってから桓公は蔡姫を実家に帰してしまったが、縁は切らずにおいた。しかし彼女の実家である蔡国は、桓公への断りも無しに蔡姫を他へ嫁がせてしまったのである。これを聞いて桓公は激怒し、蔡国討伐の兵を出すことにした。
その翌年、桓公は諸侯の兵をまとめて蔡を攻め、ついで蔡の南に位置する楚の国を攻撃した。楚の成王は兵を率いて駆けつけ、斉軍に「蔡だけに飽きたらず、なぜ我が国まで攻撃するのか」と問うた。
それに対する管仲の返答。「昔、国祖の太公(呂尚)さまは周王より、『汝は五侯九伯(天下の諸侯)を征伐し、周の王室を補佐せよ』と命じられました。いま貴国は王室への貢ぎ物を欠かしており、それを詰問に参ったのです。またその昔、昭王さま(周の四代目の王)
が楚へ南征に赴かれましたが、その折りに漢水で溺れ死んでしまい、都へ戻られませんでした。この事も併せて詰問に参りました。」
これに対して楚王は答えた。「貢ぎ物を贈らなかったのは確かに私の罪である。しかし昭王さまが溺れ死になさった事は我が国のあずかり知らぬこと。その責任は漢水の岸辺にでも問いなされ。」
その年の夏、楚王は家臣の屈完に斉軍を防がせた。ある程度斉の軍を退かせたところで、屈完は和平を持ち掛けるために斉の陣へと赴いた。桓公は彼に兵士の多さを見せつけたが、屈完はこう言った。「あなたがもし道理にかなった行いをなさるならよろしいが、もしそうで無ければ我が国は方城の山々を城壁にし、漢水を堀にして戦います。こうした自然の要塞には、どんなに兵が多くても役には立たないでしょうな。」
そこで斉は楚と和平を取りまとめて退いた。斉軍は陳国を通って本国まで戻ることにしたが、陳国は莫大な兵糧・物資を斉に献上せねばならないので心中それを嫌がった。そこで何とか他の道を通らせようと画策したが、その事が斉軍に知られて、その不実を責められた陳国は斉から討伐されることとなった。
その後、桓公はしばしば諸侯に対して傲慢な振る舞いをするようになった。そしてある時こう言い放った。「わしは今まで東西南北のあらゆる国々を従えて来た。だからわしに背く諸侯は一人といない。また、今まで何回も諸侯を取りまとめて会盟を主催し、天下の秩序を正してきた。古の夏・殷・周の王とわしとの間にどんな違いがあると言うのか?わしは今こそ、泰山で封禅(ほうぜん)の儀式(天子だけが行える儀式)を執り行おうと思う。」
これを聞いた管仲は、封禅の儀式など行って諸侯や周王の信頼を失ってはならないと考え、「封禅の儀式を行うには、遠方から珍奇な物を色々と取り寄せねばなりませんぞ。」と入手不可能な宝物の名を次々と挙げたので、桓公はようやく封禅の儀式をあきらめた。