blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


桓公薨じ、五公子相争う


桓公の四十一年(前645年)、長年国を支えてきた管仲が亡くなった。管仲が重病にかかった折りに桓公は彼を見舞い、群臣の中で誰を次の宰相とするかを相談した。

桓公はまず、易牙はどうかと尋ねる。易牙は元々料理人であり、我が子を煮殺して主君に人肉料理を振る舞って、そのお気に入りとなった人物である。管仲はその事をよく思っていなかったので、彼を後任とすることに反対した。次に桓公公子開方の名を挙げる。開方は元来国の公子であったが、父親に背いてに仕えることとなった。管仲は彼も適任ではないと言う。ならばと桓公は宦官のchou.gif (105 バイト)(じゅちょう)はどうかと尋ねる。chou.gif (105 バイト)は自分で去勢して主君に取り入ったのである。管仲はやはり用いない方が良いと反対した。しかし管仲が亡くなると、桓公は彼の忠告に反して易牙公子開方chou.gif (105 バイト)の三人を重用したのである。

その翌年、の公子である重耳(後の文公)がに亡命して来た。桓公は彼に娘を娶せた。

さて、桓公は色好みで何人もの妻妾が居り、それに伴って十数人の息子が生まれていた。彼は生前の管仲と相談し、その中で鄭姫(ていき)を母とする公子昭を太子とし、襄公にその後見を頼んだ。しかし桓公の愛妾の一人である長衛姫は、自分の産んだ公子無詭(こうしむき)を太子にしたいと考えていた。そこで、長衛姫の取り巻きであった易牙は宦官のchou.gif (105 バイト)と協力して、桓公無詭を太子とするよう働きかけたのである。桓公はお気に入りの二人の意見であったので、それに同意した。

一方、他の公子たちがこの処置に賛成出来るはずも無い。管仲が亡くなると、無詭(はん)・商人(しょうじん)・(よう)の五公子が後継の座をめぐって争うようになったのである。

 桓公の四十三年(前643年)の冬、桓公が亡くなった。易牙は主君の死を知ると、chou.gif (105 バイト)とともに 宮廷に入って公子無詭を君主の位につけ、反対派の家臣を虐殺した。元の太子である国へと亡命した。無詭を含めた五公子は、自分こそが後継にふさわしいと主張してお互いに争いあった。そのために宮中では桓公を納棺する者が一人としておらず、その屍は六十日以上も放置された。無詭がようやく騒ぎを治めて父の納棺を行おうとした時には、桓公の遺体からわいたうじ虫が、寝室の外にまで這い出ていたと言う。

無詭が即位してから三ヶ月後に、襄公が元の太子の斉侯の位につけようと、国に攻め込んできた。の人々はこれを恐れ、無詭を殺害して太子昭を迎え入れた。彼が孝公である。孝公が即位したことによりひとまず国内の争乱は収まったが、国は国力を衰退させ、覇者の地位も襄公文公に取って代わられてしまった。


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