斉の歴史
桓公薨じ、五公子相争う
桓公の四十一年(前645年)、長年斉国を支えてきた管仲が亡くなった。管仲が重病にかかった折りに桓公は彼を見舞い、群臣の中で誰を次の宰相とするかを相談した。
桓公はまず、易牙はどうかと尋ねる。易牙は元々料理人であり、我が子を煮殺して主君に人肉料理を振る舞って、そのお気に入りとなった人物である。管仲はその事をよく思っていなかったので、彼を後任とすることに反対した。次に桓公は公子開方の名を挙げる。開方は元来衛国の公子であったが、父親に背いて斉に仕えることとなった。管仲は彼も適任ではないと言う。ならばと桓公は宦官の豎(じゅちょう)はどうかと尋ねる。豎
は自分で去勢して主君に取り入ったのである。管仲はやはり用いない方が良いと反対した。しかし管仲が亡くなると、桓公は彼の忠告に反して易牙・公子開方・豎
の三人を重用したのである。
その翌年、晋の公子である重耳(後の晋の文公)が斉に亡命して来た。桓公は彼に娘を娶せた。
さて、桓公は色好みで何人もの妻妾が居り、それに伴って十数人の息子が生まれていた。彼は生前の管仲と相談し、その中で鄭姫(ていき)を母とする公子昭を太子とし、宋の襄公にその後見を頼んだ。しかし桓公の愛妾の一人である長衛姫は、自分の産んだ公子無詭(こうしむき)を太子にしたいと考えていた。そこで、長衛姫の取り巻きであった易牙は宦官の豎と協力して、桓公に無詭を太子とするよう働きかけたのである。桓公はお気に入りの二人の意見であったので、それに同意した。
一方、他の公子たちがこの処置に賛成出来るはずも無い。管仲が亡くなると、無詭・元・潘(はん)・商人(しょうじん)・雍(よう)の五公子が後継の座をめぐって争うようになったのである。
桓公の四十三年(前643年)の冬、桓公が亡くなった。易牙は主君の死を知ると、豎とともに 宮廷に入って公子無詭を君主の位につけ、反対派の家臣を虐殺した。元の太子である昭は宋国へと亡命した。無詭を含めた五公子は、自分こそが後継にふさわしいと主張してお互いに争いあった。そのために宮中では桓公を納棺する者が一人としておらず、その屍は六十日以上も放置された。無詭がようやく騒ぎを治めて父の納棺を行おうとした時には、桓公の遺体からわいたうじ虫が、寝室の外にまで這い出ていたと言う。
無詭が即位してから三ヶ月後に、宋の襄公が元の太子の昭を斉侯の位につけようと、斉国に攻め込んできた。斉の人々はこれを恐れ、無詭を殺害して太子昭を迎え入れた。彼が斉の孝公である。孝公が即位したことによりひとまず国内の争乱は収まったが、斉国は国力を衰退させ、覇者の地位も宋の襄公や晋の文公に取って代わられてしまった。