斉の歴史
桓公の子、相次いで即位す
桓公の後を継いだ孝公は、在位十年で没した。君主の位は孝公の息子が継ぐはずであったが、桓公の子であり、孝公の弟にあたる公子潘が昭公として即位してしまった。桓公の代からの佞臣である公子開方の力を借りて、孝公の息子を殺してしまったのである。
昭公の元年(前632年)、晋の文公が城濮(じょうぼく)の地で楚の軍を打ち破った。そして文公は践土の地に諸侯を集めて会盟を開き、周王から伯(覇者)の称号を授けられた。これより中原の覇者の地位は斉国を離れ、呉・越が勢力を強めた時期を除いて、おおむね晋国が独占することになる。
昭公は在位十九年で没した。息子の舎が後を継いだが、舎の母は昭公から寵愛されず、また彼自身が年若かったので、人々から信望を得ることが出来なかった。さて、桓公の息子であり、孝公・昭公の弟に当たる公子商人は、以前から自分が斉侯の位につこうと考えていたが、果たせないでいた。そこで自らの野心を満たすために、斉君舎を暗殺してしまったのである。
公子商人は最初、弟の公子元を斉侯の位につけようとした。しかし公子元は、「あなたは以前から国君になりたがっていたではないか。私が家臣としてあなたに仕えるのは何とも無いが、あなたが私に仕えるのは我慢がならないだろう。私が国君になれば、いずれ私を憎むようになる。だからあなたが国君になるべきだ。」と言って断った。結局、公子商人自身が懿公(いこう)として即位したのである。しかし公子元は懿公の政治に従わず、兄のことを「公」と呼ばずに、「夫己氏」(あのひと)と呼んだ。
懿公は、即位前に秀れた人物と交際を持ったり、人民を慈しんだりして信望を得ていたが、これは国君の地位欲しさの政治的なポーズであったようだ。やはり彼が即位前のこと。彼は丙戎(へいじゅう)という家臣の父と一緒に狩りをして、獲物の数を争ったが勝てなかった。そこで即位すると、丙戎の父の墓を暴いてその遺体に足切りの刑を加えた。そして息子の丙戎を自分の下僕とし、馬車の御者に任じた。また庸職(ようしょく)という家臣の妻が美人だったので、彼女を自分の後宮に入れて愛人とし、庸職は自分の馬車の陪乗者に任じた。
懿公の四年(前609年)、懿公は申池に遊びに出掛けた。おともの丙戎と庸職は水浴びをしてふざけあっていた。そのうちに庸職が丙戎を「やーい、足を切られた奴の子よ」とからかい、丙戎も「何を!女房を奪われた奴め」と言葉を返した。二人とも自分の現状を情けなく思い、二人で恨みを晴らそうと相談した。そして懿公と竹林を散歩している折りに主君を殺し、遺体を竹藪に置き去りにして逃げ去った。
懿公は即位してから本性を現して傲慢な振る舞いをしていたので、人々は彼を不満に思っていた。人々は懿公の太子を廃し、衛国に亡命していた公子元を迎え入れ、君主の座につけた。これが恵公(けいこう)である。