斉の歴史
蕭桐叔子、びっこの郤克を笑う
さて、恵公は在位十年で没し、替わって恵公の子の頃公(けいこう)が即位した。大夫の崔杼(さいちょ)は生前の恵公に気に入られていたが、名門の高氏と国氏はこの機会に彼を斉から追放してしまった。崔杼は衛国へと亡命し、雌伏の時を過ごすことにしたのである。
頃公の七年(前592年)、晋国は大夫の郤克(げきこく)を斉に派遣し、斉侯に、晋侯の主催する会盟に参加するように求めた。頃公は郤克に謁見する際に、母の蕭桐叔子(しょうとうしゅくし・蕭同叔子とも)を帷(とばり)の中から見物させた。片足がびっこの郤克がよちよちと階段を登るさまを見て、蕭桐叔子はたちまち笑い声をあげた。たまらないのは郤克である。彼は笑い声に激怒し、「この侮辱に報いずに、どうして黄河を渡れよう!」(斉国と晋国の間に黄河が流れていたのである。)とぶちまけた。彼は副使に後の事を任せ、早々に晋に帰国して主君に斉を討つことを問うたが、許しが出なかった。
頃公は四人の使者を晋へと派遣したが、郤克は彼らを河内(かだい)の地で捕らえて殺してしまった。更に翌年、晋軍が斉に侵攻して来た。頃公が公子彊(こうしきょう)を人質に差し出したので、晋軍は引き上げた。
頃公の十年(前589年)、斉は魯国へと侵攻した。魯は衛に助けを求めたがやはり斉軍にはかなわず、今度は覇者の晋国へと救援を求めた。晋の景公は郤克に中軍を、士燮(ししょう)に上軍を、欒書(らんしょ)に下軍を任せ、韓厥(かんけつ)を司馬に任命して斉を攻撃させることにしたのである。
戦いの段になって、逢丑父(ほうちゅうほ)という家臣が頃公の戦車の車右(戦車の右側に乗り、戈という武器を持って敵軍と戦う役)を務めることとなった。戦いの最初の頃こそ、斉軍は郤克を射て傷を負わせるなど快進撃の様相を見せたが、次第に劣勢となっていった。逢丑父は主君の身を案じ、自分が頃公になりすまして戦車の左側に乗ることにした。
さて、頃公の戦車は走っている途中で木に引っかかって動けなくなった。晋軍の韓厥はその様子を見て、すかさず頃公を捕らえようとやって来た。逢丑父は家臣になりすました頃公を逃がし、自分はやはり頃公のふりをして韓厥にわざと捕らえられたのである。晋軍の総大将の郤克は逢丑父が自分たちを欺いたことに怒って彼を殺そうとしたが、「主君の身代わりになった者が処刑されるなら、今後主君に忠義を尽くす者はいなくなるでしょうな!」という彼の言葉に感じ入り、逢丑父を逃がしてやることにした。
結局斉軍は大敗を喫した。頃公は郤克に宝物を差し出して謝罪の意を示そうとしたが、郤克はあくまで自分を笑った蕭桐叔子を差し出せと言って譲らない。しかし頃公の決死の抗議を受け入れ、斉が魯と衛から奪った土地を返還させることで、和平に応じることにした。
その後頃公は、猟場を開放し、税を軽減し、孤児や病人を援助し、国の貯蔵する食糧や財産を人々に分け与えるなどの善政を行った。他国との外交でも礼儀を尽くしたので、頃公は国内では民衆から慕われ、国外では他国からの侵攻を受けることが無かった。