blueball.gif (1613 バイト)  斉の歴史  blueball.gif (1613 バイト)


莱国の滅亡


頃公は在位十七年で没し、その子の霊公として後を継いだ。

さて、霊公の母である声孟子は、随分と浮気な性分だったようである。何と、から亡命してきた叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)と密通を重ね、彼に譜代の氏・氏と同様にの待遇を与えようとしたのである。叔孫僑如は元々の名門の出身であったが、成公の母である穆姜(ぼくきょう)と密通し、重臣の季孫氏・孟孫氏の家財を奪おうとした。しかし逆に自分自身が追放されてしまったというわけである。彼は亡命先でも同じ事を繰り返しているのにいたたまれなくなり、国へと亡命した。

しかし声孟子の浮気癖は直らない。今度は大夫の慶克(けいこく)と密通を始めた。彼は女装して後宮に通っていたが、これを鮑牽(ほうけん)に見つかってしまった。この事を知った卿の国佐慶克を叱責したので、声孟子はこの二人を恨むようになった。そして霊公に、「鮑牽高無咎(こうむきゅう)は公子角霊公の弟)を新たな国君に立てようとしており、しかも国佐はこれを見て見ぬふりをしている」と讒言したのである。霊公はこれを聞いて激怒し、鮑牽を足切りの刑に処し、高無咎を追放した。当然、国佐にはこの処置が面白くない。そこで機を見て慶克を暗殺してしまった。

霊公の九年(前573年)、霊公は処刑を司る華免に命令し、以前から不信感を持っていた国佐を殺させた。その子の国勝も次いで殺され、国勝の弟・国弱に亡命し、家臣の王湫(おうしゅう)は(らい)へと逃亡した。王湫の亡命した国とは、山東半島に位置するの隣国で、蛮夷の国である。かつて太公望営丘の地をめぐって争ったこともある。(太公望、莱侯と営丘を争うを参照)霊公の祖父・恵公の時代に二度に渡ってに討伐の軍が派遣されたことがあった。

霊公十一年(前571年)、霊公に進攻した。国の側では正輿子(せいよし)を派遣し、霊公の近臣である夙沙衛(しゅくさえい)に牛馬を百頭ずつワイロとして贈与した。霊公夙沙衛の説得を受け、軍を引き上げることにしたのである。

同じ年に、成公に嫁いでいた斉姜が亡くなった。彼女は斉侯の一族だったので、霊公は同じ姓の女性や大夫の奥方をでの葬儀に参加させた。莱子の君主)も葬儀に呼んだが、参加しなかった。そこで大夫の晏弱(あんじゃく)に、東陽の地に城壁を築かせ、国に威圧をかけた。

霊公の十五年(前567年)、東陽に駐留していた晏弱は、軍を率いてを包囲し、城壁の周りに土を積み上げて、都の中に突入しようとした。から亡命していた王湫は、正輿子や隣国の(とう)の人々とともに陣を張って軍と相対したが、軍はこれを大破して都に攻め入った。正輿子王湫kyo.gif (107 バイト)国(きょこく)に逃亡したが、逆にkyo.gif (107 バイト)の人々に殺されてしまった。また、共公に逃げ込んだが、晏弱によって攻め滅ぼされた。陳無宇桓公の時代に国から亡命して来た公子完の子孫)によって、の宗廟に納められていた青銅器がの宗廟に納められ、ここに国は滅亡したのである。の領土は重臣の高厚崔杼によって画定され、の民もの支配下に収められた。


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