斉の歴史
莱国の滅亡
頃公は在位十七年で没し、その子の環が霊公として後を継いだ。
さて、霊公の母である声孟子は、随分と浮気な性分だったようである。何と、魯から亡命してきた叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)と密通を重ね、彼に譜代の高氏・国氏と同様に卿の待遇を与えようとしたのである。叔孫僑如は元々魯の名門の出身であったが、魯の成公の母である穆姜(ぼくきょう)と密通し、重臣の季孫氏・孟孫氏の家財を奪おうとした。しかし逆に自分自身が追放されてしまったというわけである。彼は亡命先でも同じ事を繰り返しているのにいたたまれなくなり、衛国へと亡命した。
しかし声孟子の浮気癖は直らない。今度は大夫の慶克(けいこく)と密通を始めた。彼は女装して後宮に通っていたが、これを鮑牽(ほうけん)に見つかってしまった。この事を知った卿の国佐は慶克を叱責したので、声孟子はこの二人を恨むようになった。そして霊公に、「鮑牽と高無咎(こうむきゅう)は公子角(霊公の弟)を新たな国君に立てようとしており、しかも国佐はこれを見て見ぬふりをしている」と讒言したのである。霊公はこれを聞いて激怒し、鮑牽を足切りの刑に処し、高無咎を追放した。当然、国佐にはこの処置が面白くない。そこで機を見て慶克を暗殺してしまった。
霊公の九年(前573年)、霊公は処刑を司る華免に命令し、以前から不信感を持っていた国佐を殺させた。その子の国勝も次いで殺され、国勝の弟・国弱は魯に亡命し、家臣の王湫(おうしゅう)は莱(らい)へと逃亡した。王湫の亡命した莱国とは、山東半島に位置する斉の隣国で、蛮夷の国である。かつて太公望と営丘の地をめぐって争ったこともある。(太公望、莱侯と営丘を争うを参照)霊公の祖父・恵公の時代に二度に渡って莱に討伐の軍が派遣されたことがあった。
霊公十一年(前571年)、霊公は莱に進攻した。莱国の側では正輿子(せいよし)を派遣し、霊公の近臣である夙沙衛(しゅくさえい)に牛馬を百頭ずつワイロとして贈与した。霊公は夙沙衛の説得を受け、軍を引き上げることにしたのである。
同じ年に、魯の成公に嫁いでいた斉姜が亡くなった。彼女は斉侯の一族だったので、霊公は同じ姜姓の女性や大夫の奥方を魯での葬儀に参加させた。莱子(莱の君主)も葬儀に呼んだが、参加しなかった。そこで大夫の晏弱(あんじゃく)に、東陽の地に城壁を築かせ、莱国に威圧をかけた。
霊公の十五年(前567年)、東陽に駐留していた晏弱は、軍を率いて莱を包囲し、城壁の周りに土を積み上げて、莱都の中に突入しようとした。斉から亡命していた王湫は、正輿子や隣国の棠(とう)の人々とともに陣を張って斉軍と相対したが、斉軍はこれを大破して莱都に攻め入った。正輿子と王湫は国(きょこく)に逃亡したが、逆に
の人々に殺されてしまった。また、莱の共公は棠に逃げ込んだが、棠も晏弱によって攻め滅ぼされた。陳無宇(桓公の時代に陳国から亡命して来た公子完の子孫)によって、莱の宗廟に納められていた青銅器が斉の宗廟に納められ、ここに莱国は滅亡したのである。莱の領土は重臣の高厚と崔杼によって画定され、莱の民も斉の支配下に収められた。