平成 14 年9月 24 日、「基礎や骨組みといった建物の構造の欠陥など重大な瑕疵(欠陥)があるために、建てかえるほか技術的、経済的に相当な方法がない場合には、注文者は請負人に対し建物の建てかえに要する費用相当額の損害賠償を請求できる」という判決が下された。 一見すれば社会常識的には全く当たり前の理屈であるが、実はこれができるかできないかについては法曹界において長年争われていたのである。もっともこの問題が顕著に法曹界に登場したのは、さきに述べたように、住宅の生産システムが変遷し住宅会社が登場して、いわゆる手抜き欠陥が社会問題化した昭和 40 年代以降の訴訟事件においてであった。 これに関しては、このような取り壊し建てかえ損を請求できるという 積極説 とこれはできないという 消極説 とがあったのである。
このうち、特に消極説は学説を通じて展開されていた。 また、後藤 勇元大阪高裁総括判事を代表とする司法界でも消極説が有力であった。 その根拠となっていたのは、民法 635 条が「土地建物の工作物、すなわち建物または住宅については目的を達成できなくても契約を解除できない」という規定である。 この場合、契約が解除されたならば、当事者に原状回復義務が生じる。原状回復とは、請負人は注文者に受け取り代金を返還するとともに、建物を収去して土地を更地にするということである。 しかし、実際に建物を収去することは社会経済的な損失になるとともに、請負人の経済負担が過大であるなどの理由が挙げられていた(我妻 栄「債権額論」中二 640 ページ。 幾世 通・広中俊雄編「新版注釈民法」 16 巻 138 ページ)。 そのため、建物の請負契約の解除不許の規定については、それ以上論じられることが少なかった。 この条文の立法過程については、植木 哲「欠陥住宅の本質」(千葉大学法学論集第 19 巻第1号− 2004 年7月)に詳しい。 また、「建物に重大な欠陥、例えば構造欠陥などがあって取り壊し建てかえるほか相当な補修方法がない場合にもその建てかえ費用の損害を認めることができないのか」という問題については、同論文及び松本克美「欠陥住宅被害における損害論」(立命館法学第 280 号− 2001 年第6号)に詳しく論じられている。 立法過程では、絶対的に契約の解除ができないのかという反論または疑問が立法策定者の1人から出されていたが、主流派の策定委員がこれを全く無視して建物の契約解除不許の立法を推進したとされている。
これは、私が拙著「欠陥住宅紛争の上手な対処法」(平成8年民事法研究会刊)の5ページ及び 131 ページ以下で述べているように、当時の請負契約が適用されることの多い「 ものづくり 」、特に住宅の生産は共同社会内部における信頼関係のある大工、棟梁との直接契約によっていたこと、そして当時のものづくりの世界では職業倫理が貫徹されており、現今見られる故意の手抜きなどは予想もされなかったことなどに加え、住宅の様式が簡単で、注文者側も棟上げなどで生産に参加して住宅知識がある程度あったことによって、故意の手抜きや取り壊し建てかえざるを得ない欠陥などは予想されず、民法の条文の「瑕疵」という文字が「玉にきず」の「きず」を意味しているように、故意または重大な過失による欠点は瑕疵概念の中になかったと思われることなどが挙げられる。
しかし、昭和 35 〜 36 年ごろからの経済の高度成長政策による共同社会の喪失と、信頼すべき大工、棟梁を持たない多くの都市住民の発生、またマイホーム政策の推進とこれを受けた集客・受注を主たる目的とする住宅会社の出現、つまり請負契約上の請負者と実際に直接施工をする者とが分離し、注文者と実際に直接施工する下請もしくは孫請の施工者との間に信頼関係が直接存在しなくなったこと、この重畳的下請システムによる中間利潤の増大による直接施工者の生産原価の切り詰めなどが故意の手抜きを生み、民法の右条文の立法当時の事情とは全く異なる社会情勢が出現したことなどによって、立法当時のものづくりを社会の倫理に期待する前提が喪失したことが主な原因であろう( 住宅の生産システムの変遷による民法の前提の喪失)。
今までの学説の多くはこの住宅の生産システムの変遷に伴う民法の実質的立法前提の喪失には余り触れることがなく、専ら形式的な民法解釈に終始していたために、学説や法条の文言解釈上の問題に還元されて、両説が並行する形となっていたものである。 というのも、実際に欠陥住宅に遭遇する我々弁護士は、訴訟には至らない多くの欠陥住宅や契約当事者、特に被害者や直接の生産者である手抜き業者との紛争・軋轢などその争いの生々しい実態に触れ、住宅紛争の情報が豊富であるのに比べ、裁判官は訴えとして提起された事件に接するだけで、生の事実を捨象された訴訟資料に接するだけである。しかも、その数も限られている。ましてや学者となれば、抽象化された裁判例によるしか欠陥住宅の実情に触れることがないので、この問題に対する議論も、社会の実態を離れた文言中心の形式的解釈論に終始する嫌いが高かったのである。 また、後藤 勇氏に代表される消極説(「請負契約に関する実務上の諸問題」平成6年判例タイムズ社刊)も、「ものづくり」を大切にし、「一たんつくったものは壊さない」、「節約する」、「特に建物は社会的に重要な財産であるという考え」が根底にあるものと考えられる。そして、これが常識的にも妥当なものとされてきたのである。
これに対し、近時、この判決のような取り壊し建てかえ損を認める積極説が有力となってきたのは、従来の物を大切にするという考え、即ち伝統的な不具合事象がなく、住めればよいとする素朴な思想から、 建物の品質を不具合事象から性能に求める考え方が貫徹 してきたことにもよると私は考えている。 この判決の原審及び第一審の判決を見れば明らかなように、木造建物で法定の構造方法の不遵守が構造全体に及んでいる事案ではあるが、今建物が倒壊に瀕しているような事案ではない。 しかし、建築基準法が定める最低限の安全性を持たず、法が予定する強さの荷重や外力を受ければ損壊するおそれのある建物である。 後藤 勇氏はその消極説の理由の1つとして、取り壊し建てかえ代金相当の損害賠償をとっても、注文者がそのまま建物を使用すれば二重の利得をしていることになるといった考えを述べている。 後藤氏は損害賠償の本質は交換価値の回復だと述べてはいるものの、その考えの前提としては、法律上最低の構造性能を持たない建物があっても住もうと思えば住める、使おうと思えば使える、つまり建物の品質を不具合事象や使用価値に求める考え方なのである。 だからこそ、「建っているのなら安全なのではないか」との考えに直結しているのである。 これに対し、本判決の原審や第一審は建物の品質を性能に求め、その性能のレベルを法定基準に求めた上で、建物自体は建っているのに取り壊し建てかえを相当としてこのような判決が下されたのである。恐らくこの最高裁判所の判決の前提には、建物の品質を性能でとらえること、特に建物の品質の性能レベルの最低限を建築基準法の基準に求めている(同法第1条参照)ものであろうと考えられる。
この判決についての評釈は多々出ており、例えば判例タイムズ 1154 号 66 ページ以下では、元司法研修所教官の加藤新太郎判事が要領よくまとめられているが、畢竟、取り壊し建てかえ損やその前提としての取り壊し建てかえ請求ができるかということは、そこでは条文の解釈の整理にとどまっている。 しかし、この背後には、「建っているのになぜ取り壊すのか」という単純な不具合事象論から、建物の品質を性能でとらえそのレベルの最低限を公共の福祉との見地から建築基準法に求めていることに社会全体が転換してきたということがあると考えられる。 つまり、この判決も、平成7年目の阪神大震災によってそこまで建っていた建物が瞬時にして倒れたという事実を目の当たりにして、建物は今建っているから安全なのではなく、一定の地震や台風などが発生した場合にもつぶれないかどうかが問題であるという、建物の本質を性能でとらえる考え方が社会全体に浸透してきたことによっているものと考えられる。
ここで参考までに、取り壊し建てかえ相当損害を認める場合でも、 今まで居住した分の利益(賃料相当金)を考慮すべきであるという説 (これはさきの後藤 勇氏の二重取り説をやや緩和した説)がある。 しかし、被害者は代金全額を払って建物の所有権を取得したのであるから、仮に欠陥があってもその建物を使用することは、代金を払った所有権の効果として当然のことであって、所有者である注文者は何らの不当利得をしているものではない。 つまり、法律上の原因なくしてその建物を使っているものではないので、この説は全く不当な考え方と言える。もしこの考え方(損益相殺説)が相当ならば、訴訟を長引かせるほど請負人は払うべき損害額が少なくなるという不当な結果を生じる。 また、注文者がその使用利益を控除されなければならないというのならば、代金全額を受け取った業者側も、賠償するまでにその代金を運用した利益を被害者に返還しなければならないという考えにも到達するはずであるが、このことについて論じる者はない。 要するに、この損益相殺説は法律上の根拠を全く欠くものである。もし損害賠償論での損益相殺説を貫徹するのであれば、それは欠陥があることによって被害者が利益を得ている場合に、その得た利益と欠陥を除去するために必要な費用、すなわち損害額とを相殺するというのであれば、法理上相当なものとなるのである。
ともあれ、今回のこの判決は、欠陥住宅問題の前提としての住宅の生産システムの変遷と、阪神大震災を契機とする住宅の品質を単なる不具合事象から性能とそのレベルに求める考え方の定着が前提となっているもので、この意味においても画期的な判決である。 |