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欠陥住宅を正す会の窓

昭和53年以来30年に亘って欠陥住宅被害者救済活動を続けている

         欠陥住宅を正す会では、

このホームページで欠陥住宅問題のホットなニュース、新判例など被害救済に役立つ記事をお届けします。

 

―正す会の窓・・・その40―

欠陥住宅を正す活動の思い出・・・・・その3

       ―― 欠陥住宅紛争を個別住宅紛争としてとらえる必要 ――

 前回その2で『欠陥住宅』という昭和54年8月に書いた文章の紹介をしたが、その末尾に“まじめな建築関係者・法律家をもまじえ、地道に個々の被害者の救援互助活動を行いかつ、欠陥についての地道な研究活動をも行うことにより、「欠陥に対する必要な立法措置」をとらせるまでに発展することを望んでやまない。”と書いてその文章を措いている。
これについても当時の運動展開についての反省がある。

 欠陥住宅運動は、戸建欠陥住宅問題に先立って昭和40年後半より欠陥マンション・欠陥プレハブを正す運動として展開された。

  このころ主として東京方面で「プレハブを良くする会」や「マンション問題を考える会」などによって運動が繰り広げられていた。これはプレハブが同じ型式の住宅だから被害事実も共通であろう、マンションについても同一建物の中の区分住宅だから各戸居住者の被害も共通になるだろう、だから特定プレハブの被害者ごとに、また特定マンションの居住者らで抗議集団を作り、プレハブ会社やマンション販売業者と交渉すれば、その集団的圧力によって欠陥が是正され、又は相当な賠償がされるとの確信に基づいている。

  これらプレハブやマンションの運動に遅れて、昭和53年から始まった関西での戸建住宅被害者での集まりである「欠陥住宅を正す会」の前身である「住宅のクレームに悩む消費者の会」でも、結成当初は素朴に同じことが考えられていた。「欠陥住宅摘発隊」を組織し「業者を糾弾するのぼりやプラカードを立てよう」とか、「欠陥住宅を公開し、多くの人々に被害事実を見てもらいマスコミにも報道してもらって業者に相当補修や賠償させる圧力を加えよう」とかいった類のもので、多少はプレハブやマンションの場合と異なっても、欠陥被害は同一メーカーの物であれば同じ手口の手抜きで共通であり、補修方法や補修代金もほぼ共通であるということが素朴に前提されている。また欠陥住宅の公開も、公開すれば業者は社会的糾弾を受け、補修や賠償に応じざるを得なくなるだろうとの希望的推測がある。

  しかし戸建住宅ではこれらの期待はいずれも裏切られた。同じ型式の住宅でも敷地の個性は千差万別で地業や基礎構造は異なり、間取り、空間利用も内外装の仕様やそのグレードは注文者の個性や事情を反映して様々であるうえ、代金額や契約締結事情も様々である。

  結局は、住宅の注文契約は様々な個性のある土地に立脚する、様々な居住目的からくるグレードも個々別々の個別契約性が極めて高いということが忘れられていたのである。その個別契約性に立脚しなければ、被害回復の内容即ち相当補修方法や、その相当工費つまり賠償額も具体的に導き出せない。また締結の事情の違いは賠償金額にも影響を及ぼす。

  そこで「正す会」では、当初の段階からこのことが反省自覚されて、住宅の注文の欠陥が極めて技術性・専門性が高く、自らの頭脳を持たなければ業者任せでは適正な補修方法や賠償代金も算定できず、結局は消費者の痛みを自己の痛みとしてとらえてくれる消費者サイドの専門家の助力なくしては個別紛争の適切な解決は有り得ないとして、弁護士や建築士を専門委員として会のメンバーに加え被害者救済活動にあたってきたのである。
このことは『欠陥住宅を正す会』の設立の趣旨や会則を見れば明らかである。今参考までにその「設立の趣旨」を援用する。

【 設 立 の 趣 旨 】

「マイホームづくりにお手伝い」とささやかれながらも、住宅建設の現状は住宅注文者の無知に乗じる悪徳業者らの手抜きにより、数多くの「欠陥住宅」が生み出され、何の罪も無い被害者が日々の「住いの不自由さ」で苦しめられ、時として「生命・身体の危険」を感じつつ、「家庭の平和」までつぶされています。

  しかし、この解決には専門的な知識がいることや、法律の不備などによって、多くの被害は仲々回復されず、今や「欠陥住宅」は大きな社会問題となっています。 私達の会は、「自らの力でこの問題を解決しよう」という欠陥住宅体験者が中心となり、又この悲痛な体験者の叫びを自己の問題として真面目に受けとめる建築関係者・法律家などの専門家や、さらに文化人や市民をも含む集りとして生まれたものです。

  現に欠陥住宅の被害をうけている人々はもとより、これを「自己の被害」として受けとめ、「欠陥住宅を排除し正(ただ)そう」とする人々の広汎な参加を呼びかけます。

昭和54年8月12日

 また、欠陥住宅公開については以上のような観点から、奈良県生駒市と茨城県牛久市で昭和53年と同54年に公開が行われ、マスコミに喧伝されて多数の見学者を集めたが、この公開自体だけではなんら公開した被害者の被害回復には至らず結びつかなかった。その結果、これら被害者は殉教者的な思い込みの深さとその結果の悪さからか、私たちの運動からは消えていった。

  これも、もともと欠陥住宅被害が個別契約性が高く、業者との紛争解決には個別的な司法手続きによらざるを得ないことが理解されていず、公開による社会的圧力が業者をして問題解決に至らしめると安易に期待しすぎていたからであろう。

  欠陥住宅を公開している人は、自分のデメリットをおかして“世のため人のため欠陥住宅の公開をしている”と思い込みすぎていたのではないか。もしそうならばその公開の結果にそもそもは世のためで自分の紛争解決に対する期待も無かったはずなのに、その後公開者の現況が聞かれないのは、おそらくこと期待に反した結果であったことではないかと思う。

  当会ではこのことがあるので、仮に欠陥住宅の公開路線を求める人があってもお断りすることにしている。

  結局、欠陥住宅はあくまでも住宅そのものであって個人の財産である。その欠陥が除去されて円満な状況に補修されない限りその人にとって何の意味も財産的価値の回復も無い。くどいようだが、欠陥住宅を公開しただけでは欠陥住宅についての具体的な補修が決まるものでもなければ、業者側が無視すればそれでおしまいである。公開者あるいは又賛助した我々被害者等は、公開による社会的圧力によって業者の善意ある行動を期待しただけであって、業者が公開者が望んでいた履行をしなかったからといって相手方に求めるべき何物も無い。シビアな言い方をすれば、欠陥住宅紛争はあくまでも個別的な契約によって特定される欠陥の是正であり、当事者間で話し合いがつかなければ司法手続きによらざるを得ないのである。

  裁判手続きに及ぶことには時間も費用もかかる。これを短縮したい気持ちはわかる。
しかし欠陥住宅被害は個別性が高い上、相手方の状況も別々である。そもそも裁判をさけて訴訟外で業者が解決に応じるのは、判決という形で世間に手抜き事実が知られれば信用も落とし、今後の取引や企業の存続にも影響があることを恐れて、多少の言い分はあっても目をつぶって任意補修なり和解に応じるのである。いったん手抜き事実が世に知られてしまえば、かえってそうでないと争い、冤をそそごうとし居直るのは自然の成り行きで、財力や企業力がある者は居直ることとなるし、群小業者でもともと信用も無い者であれば公開によって信用を落とし、倒産しかねず、結局元も子も無いこととなるか又は果てしない持久戦に突入することになる。公開の圧力で被害解決を容易にしようとすること自体に、契約社会の原則からみても無理があるといわざるを得ない。

  「正す会」も発足当初のこの2回の欠陥住宅公開支援によって、結局は公開被害者が良い結果を得ず、仲間から外れて行った経験から、その後欠陥住宅の公開をすすめたり支援したりすることを避けている。

  言い換えると公開の当初は公開被害者自身もマスコミの反響などから救世主になったような陶酔感を味わうが、公開が業者の態度を硬化させかえって泥沼となり、そもそもは公開に頼る案件には訴訟をするうえでは証拠や主張の面からは若干の無理があり、良い結果が得られぬまま他の会員とは疎遠な結果となって会員間に後味の悪い思いを残すのである。

  だから自己の被害解決の結果を考えず、純粋に“世のため人のため”に欠陥住宅公開をするのでなく、自己の紛争解決をも考えて業者に対する圧力として公開するのであれば見合わせるべきだとつくづく思うのである。

(19・1・15 澤田 和也)