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欠陥住宅を正す会の窓

昭和53年以来30年に亘って欠陥住宅被害者救済活動を続けている

         欠陥住宅を正す会では、

このホームページで欠陥住宅問題のホットなニュース、新判例など被害救済に役立つ学習記事をお届けします。

 

―正す会の窓・・・その64―

 早いもので今年ももう3月になりました。
昔から“お雛様は早く片付けるように”と言われていますが
関西ではまだまだ旧暦でお祝いをする家も多いので
4月まで飾って楽しんでおられるお宅も多いいことでしょう。
 今回は、30年以上消費者運動をしている中で、前回「思いで・・・その7」でも触れましたように、思いもよらない不可思議な出来事に遭遇することが多々ありました。その中でもこれはあるグループの典型的な組織乗っ取りの犯罪的行為でした。今思い出しても不愉快な出来事の一つです。

(21・3・5)
夢二画

欠陥住宅を正す活動の思い出・・・その8

     不愉快な出来事
         ――しらぬ間に会の運営が他グループの手に――

 もう30年近く経ったので、名誉毀損の問題でもなければ誹謗の問題とも強弁されることはないと思うので、欠陥住宅の公開に関連していまだ私の心に残っている不愉快な事実を書き残しておきたい。
 「欠陥住宅を正す会」の前身の「住宅のクレームに悩む消費者の会」が自然発生的に生まれた昭和53年11月、発会当初のイベントとして、欠陥住宅被害体験を各人が寄稿して作る「欠陥住宅体験集――間違っていた家づくり――」が企画され、翌54年4月に三笠書房より発刊され8000部の初版は完売となるほどよく読まれた。
 本部は大阪にあったがこの書物はマスコミ報道のせいか関東方面でもよく読まれ、東京の被害者から東京でこの「体験集」の読者の会合を開いてほしいとの連絡があったところから、同年の8月ごろ東京神田のYMCAでこの読者の会がもたれた。そしてこの会合は出席者の賛同によって直ちに「欠陥住宅を正す会」(同年の8月に「住宅のクレームに悩む消費者の会」は会としての組織、体裁、会則を整え「欠陥住宅を正す会」と改名して発足していた。)東京支部発足会会場に切り替えられ、熱心な読者であるKさんが東京支部の世話人に選ばれた。
 Kさんは自分の茨城県牛久の欠陥住宅を公開して世論に告発し、啓蒙したいといわれ、ご本人がそう言ってくれているので他の会員も賛同し、当会も支援するということになった。
 この公開は同年12月上旬牛久の現場で行われ、マスコミの報道によって多くの人々が見学に訪れた。私も当時代表幹事であった早草實先生(一級建築士)と共に前日から泊り込みで支援に出かけた。公開は一日だけでとどこおり無く終了した。ただし見知らぬ中年の女性らが会場にきており頼みもしていなかったのにテキパキと会場整理をしてくれていた。が、問題はその後で起こった。
 翌昭和55年1月の例会が浅草の公共施設を借りて行われたが、その見知らぬ女性二人が頼みもしていないのに入会者の受付から会費の徴収や又各人の被害事実を書いてもらっている入会申込書などを取り仕切って、会の執行部である私たちの指示に従わず、名簿や集めた会費を持ち帰ってしまったのである。
 欠陥住宅公開と前後して当会の例会に、頼みもしていなかったのにKさんの訴訟代理をしているという弁護士のT女史が二人ほどの若い仲間の弁護士を連れて相談活動に参加していた。又頼みもしていなかったのにNという今でも欠陥調査鑑定のメンバーを組織している学者が教え子であるという二人の建築士を連れてきており、私や早草先生や又当時Kさんと共に東京支部の世話をしていたK・Tさんなどはまったくつんぼ桟敷に置かれている有様で、私たちは何がなんだかわからず呆然とする始末であった。Kさんはと言えば、欠陥住宅の公開以降は正す会執行部の意向には従わず独自の行動をとるようになっており、どうもT女史や入り込んできた二人の中年女性の意向で動くようになっていた。我々もこれはKさんを取り込んだ組織乗っ取りであると直感した。私と早草先生はK・Tさんとも相談の上、T女史に談判しあくまでも欠陥住宅の公開支援やその後の例会は「欠陥住宅を正す会東京支部」が行ったものであるから会場で集めた入会申込書や入会金を返還するよう要求した。
 今でも覚えている昭和54年1月の例会の寒い夜、私と早草先生は品川の高台の路上でT女史と最後的な交渉をしていた。煌々とした月明かりがなかば凍結した路面に光を投げかけていた。
 その後二人の女性から入会申込書や集めた入会金と称する金額の金が正す会本部に送られてきた。彼等は欠陥住宅を公開したKさんを会長にして、正す会が集めていた100人を超えると思われる人々を会員として別個に「欠陥住宅を×××する会」を組織させ、その後そのメンバーで活動していたようであるが、早やその2,3年後には具体的な活動の消息を聞くことがなくなったので同会は自然消滅したものと思う。Kさんの訴訟結果については未だ聞くことが無いから、不本意な結果に終わったのではないだろうかと案じている。
 多分この二人は政治結社のオルグではなかったか。T女史もN氏も彼等の仲間だったのであろう。T女史やN氏は忘れていても、今でも私は忘れていない。「加害者は加害の事実をすぐ忘れるが被害者は被害の事実をいつまでも忘れない」。
 どちらが早く念願の「取り壊し建て替え判決をとるか」。心の中ではこの組織泥棒ともいうべきT女史、N氏に対する闘志が燃えたぎっていた。それから5年も経たぬうちに私が昭和59年末、日本で初めて「取り壊し建て替え」判決を取った。
 何故Kさんが大阪の我々に声をかけ、正す会の支部づくりまでして欠陥住宅の公開にまで踏み切っていながら、このような乗っ取りグループと一緒に「正す会」の分派とでも言うべき会の会長に納まったかは、この件について本人の弁明を聞く機会がなかったので確かなことは判らない。ただこの分派に参加した会員の話や諸般の事情から推測すれば、KさんはT女史に訴訟代理を委任しており、当時T女史とペアで欠陥住宅対策活動をし、NHKで活躍していた学者のN氏に対して信仰的なまでに傾倒した結果、自己の被害を有利に解決したいためにあえて当初から支援していた我々を裏切ったのではないかと推測される。
 この事実からしても欠陥住宅の公開は両刃の剣で、欠陥住宅を世にただすという殉教者的な信念が、本来的な自己紛争の解決結果への期待の前に消え去ったのであろう。
 私はこの事実の前に、当時出版されていた山崎豊子氏の「仮装集団」という小説の中の同じような組織の乗っ取り策謀の記事を思い出さざるを得なかった。又これは事実確認をしたわけでなく不確かなことであるが、その後ほどなく元共産党幹部の伊藤律氏が長い中国での違法幽閉から開放され、羽田に降り立つ写真を新聞で見たが、そのとき出迎えて伊藤氏を抱え込むようにしていた女性が、知らぬ間に「正す会」の東京支部を取り仕切っていた二人の女性のうちのひとりと全くよく似ていたのに驚いた。ただし同一人物であるとの確認はしていない。そしてこの乗っ取りの実行者である二人の女性の挙措、言葉遣い、態度は昔のいわゆる労働団体でよく見かける政党関係者又はいわゆる市民団体のそれに似ていた。
 参考までに「欠陥住宅を正す会」はその後すぐさま建築設計監理協会に建築士の先生の推薦をお願いすると共に新進気鋭の弁護士であった木村孝氏を東京世話人にして東京支部を再建し、定例の例会は30年来続けて行っている。
 雨降って地固まったというべきか、または余りにも無防備であった我々に組織防衛の必要を教えられたためか、東京での活動は幸いに隆盛を極めている。
 因みに、乗っ取りに参与したと思われるT女史や学者のN氏は現在も欠陥住宅問題の全国的組織で活躍しており、NHKの放映ででも見かけ、会合で出会うこともあるが、先に述べたようにこのことについては私に一言も触れず、悪びれるところもない。まさしく「加害者は加害の事実をすぐに忘れている。」のであろう。

(19・1・15 澤田和也)