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          随 想

「私の大阪(T) 久左衛門町」

 当時はミナミも二十四間(にじゅうしけん)道路(御堂筋の旧称)を西に越えると「しもたや」(居宅)の甍がつづき、その合い間に粋な黒塀、二重格子の家や開け放しの商家の土間も見えて、新戎橋の北詰には酢の醸造元の焼き板張りの倉庫塀も見られた。5月ともなれば生垣をめぐらした「しもたや」の梢ごしに青空高く鯉のぼりもはためき、におう若葉の垣根から「お師匠はん}の長唄が三味線の音と流れてくるという町の風情だった。

家は久左衛門町の西のはずれ、大黒橋の北詰にあり裏手は道頓堀川だった。玄関を入ればすぐ地下の納戸に通じる階段があり、くだればそのまま裏口で、そこはもう舟(ふな)着き場だった。

町の名は地元の名家和田久左衛門氏に由来し、和田家の当主は代々、久左衛門を名乗った。しかし和田家の重厚な門構えはこの町になく、やや北寄りの八幡筋が西横堀川と交わる南炭屋町(今のアメリカ村)に川を背にして見られるのだった。

毎日ののどかなポンポン蒸気の音にかわって、或日突然、激しい風雨と瓦や看板が飛びかう音がこの町を襲った。あわただしい雰囲気だった。私はおびえていた。大人達が「えらいこっちゃ。」と大声で往来した。昭和9年9月の室戸台風である。私はいつも可愛がり遊び相手にしていた飼犬のことを思った。白地にやや茶色の斑がまじった小型犬だった。地下室をのぞいた。水びたしだった。裏口の犬小屋はなかった。侵入した高潮におし流され家の者も救出できなかったと言う。私は無性に悲しかった。大声で泣きわめく私を若い「ばあやん」(乳母)が、「ぼんぼん、そない泣かんと・・・。」と抱きしめて、炊出しのニギリ飯を頬張らせてくれたのを、その熱さと塩からさで思い出す。
その後高潮を防ぐため、大黒橋は現在の開閉ダム式にかえられた。

(昭和55年8月 澤田和也)