随 想
「私の大阪(U) 戎橋北詰」
戎橋北詰の西角(かど)は洋風の南海食堂で、そこから久左衛門町へと、キャバレーの銀座会館、淡路屋旅館、大江薬局から戎橋郵便局が続き、当時の私の家はその淡路屋の向かいの西村ガラス店の2階西隅をくぐる路地を20歩ほど入って更に右の方ヘカギの手に入ったところにあった。
今は日立ホールとホテル・ホリディ・イン・南海とが背をくっつけあっていて、その路地はない。表通りから奥深いその路地は日中とはいえ静まりかえっていて、その石畳は私の恰好の遊び場だった。
「おはようございます。」「おはようさん。」もう夕方だというのに、路地をはさんだ西隣の銀座会館の事務所(店とは別の所にあった。)から、主任さんと女給さんとの挨拶がきこえてくる。やがて「10番さ〜ん!! ごあんな〜い!! 」というマイクで二階の更衣室からあたふたと店へ出て行く女給さんの後姿を見るともなしにみていた時、父に赤紙が来た事を母から告げられた。
日支事変が始まってまもなく、父の歓送会が町会主催でひらかれた。戎橋北詰は人と幟(のぼり)でうめられた。送り送られる者の心の中は重くても、事変が始まったばかりのその頃は、物資不足も空襲もなくて、町には活気がありミナミも艶(あで)やかさを失なっていなかった。文字どおりの「歓送会」であったかは疑問としても、集まる人々の表情は皇軍の大勝と出征兵士の武運長久を祈念していたといってよい。
有志の激励の辞がすんで、坊主刈りにした父がタスキがけの緊張した姿勢で覚悟の挨拶を式台でおえると、軍服に身を固めた在郷軍人のガラス屋さんが大声で、
「澤田卯之松君万歳!! 万歳!! 万歳!!」
と三唱の音頭をとった。挙手の礼で応える父の前で見送る人々も唱和した。銀座会館の女給さんの白い二の腕も上がった。
(昭和56年1月 澤田和也)
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