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随 想


「大阪と東京」

          ――ゆがめられている大阪文化の紹介――

マスコミが又は大衆芸能が、ネタのないとき使う題材に大阪物又は東京と大阪の対比物がある。私は余りテレビは見ないけれども、たまに垣間見ると、吉本の俳優の聞くに堪えない下卑た大阪物のどたばた劇があり、それがまた皮肉なことに東京系のメディアで全国的に発信されている。それは山崎豊子のぼんち≠竚テくは谷崎潤一郎によって書かれた細雪≠ニは全く違う。吉本が主として売っている大阪物は、商人世界とその大阪文化やつまり船場の世界やその文化が花咲いた阪神間の世界とは全く違って、ただ河内弁や泉州弁のどぎつく汚い言い回しを強調した、やくざでも渡世人でもないのに、人の顰蹙をかう所作で怒鳴り合うだけの動物の咆哮に似た言葉の連続である。

関東の人も普通の人は、総て大阪の人間がこのような下卑た言葉や乱暴な世界に生きているとは思っていないと思うが、当の大阪に生まれ育っている私にとっては、全くよそでは顔向けできない恥ずかしさを感じる。大阪をまげて金儲けのネタにしている当の吉本はもとより、これをさらに商品化して金儲けをしている東京や大阪のメディアに怒りを覚える。

私も仕事の関係で、少なくとも月に一度多いときには三度四度と東京に出かけ、一般の人の前でしゃべることも多い。その時 東京の人から時として、私のしゃべる言葉が全く大阪の人間とは思えないとか、大阪弁でないとか言われる。おそらくこれらの人たちはテレビの俗悪番組から、大阪人のパーソナリティをそのチンピラ風のぞんざいな言葉で受け止めているからであろう。

もし文化犯罪裁判があるとするならば、私は吉本やこれら俗悪メディアを第一級の犯罪人として告発したいと思っている。
さて、大阪と東京の対比には、このような俗悪な言葉や下品なギャグ、猥雑なジェスチャーなどとともに東西文化の対比として、関西文化は京都で代表される洗練された雅(みやび)なもので、これに対する東京つまり東の文化は何か田舎者の低級なレベルで安物文化であるというような対比がされることが多かった。過去形で述べているのは、現在東京が日本の文化を代表するところから過去形で言ったが、私が子供の頃又は若かった頃には、東京のうどんは塩辛いとか、東京では牛肉を食べずに豚肉を食べるとか、真っ黒な土で大根だけしか出来ないとか、言うならば洗練された京風の文化に対して素材のままの荒削りな田舎文化として関東を蔑むような調子で語られていた。もっとも、当時とて私は何もうどんの出汁の色が濃かったところで、牛肉の代わりに豚肉を食べていたところで、何も軽蔑の対象になるものではないと思っていた。が しかしそういう蔑みの言葉の中にかえって私は関西人の東京に対するコンプレックスを感じていた。関東大震災で一時は日本の文化の中心が関西に戻りかけたことがあるとはいえ、私の若かった頃からもう東京への一極集中が始まっていた。学校に行くなら東京に行かなければならない≠ニか、就職するなら東京系の企業で≠ニか、ましてや文学や芸術の分野にいたっては東京でないと絶対ダメだ≠ニか、同じ高等学校を出た友人の勤務先や現在地を同窓名簿でみても、関西の資産家の子弟が多いといわれた同窓の半数は東京にいる。元来はその出生からみて関西で生活しても充分立派な生活を送れる人々の多くが東京で住まっている。このことはとりも直さず経済発展が一極集中化を生み、文化もそれに追随していることに他ならない。

我々が関西に土着しているので、得てして京に代表される関西文化が日本の文化そのものであるように思わされまた思いたがっているけれども、これは全く歴史の現実を見ない関西人の独りよがりであると言わなければならない。もうそんな魔法から又は憑きから開放されなければならない。考えてみれば、よく言われるように日本の政治や文化は西から東へと進んでいったのであって、行き着く所が現在の東京中心になっている。

同じ東西文化論の系列に豊臣贔屓の家康悪者説がある。徳川家康が狸おやじ≠セというのは、話を善悪に分ける講談物から出たものだと思う。私には関西の人間が同じようにそれを気持ちの上で受け入れていることが多いのは全く残念である。はっきりと言えば、淀君と大野某(なにがし)家老との大阪方に将来を託するよりは、実力派の徳川家康に将来を託するほうが多くの大名にとって現実的でありニーズであっただけのことである。その証拠に、豊臣譜代といわれる多くの大名達が関が原の合戦のときですら西方に組みしていない。265年にわたった江戸時代は、それまでの戦乱の続いた近世の武家時代に政治的・文化的な安定を与えた特筆すべき時代である。それなのに、ともすれば明治時代が強調されすぎているのは全く残念である。

明治維新は、長らく皇室の政治力を簒奪していた徳川から、勤皇の志士や公家がそれを奪回して天皇に奉還させ、その結果日本が開国文化の近代国家を築いたかのごとく喧伝されている。しかし、その勤皇の志士一派が唱えていたのは攘夷≠ナあって開国≠ナはない。尊王≠ニ攘夷≠ヘ尊皇攘夷≠ニして一まとめのフレーズとして維新の実現まで唱えられていたのであるから、彼等の言うことも全くの食わせ物である。

開国は徳川幕府が言い、井伊大老がその道を開いて『花の生涯』を閉じたのである。幕府からの権力奪取が終わるや否や、攘夷論者たちは明治政権の権力を握り、開国のあるいは文明開化の宣教師と一変した。

徳川時代つまり江戸時代のことが余り積極的に取り上げられず、講談の中の豊臣贔屓が是認されているのも、私には明治で政権をとった維新派の文化政策の一環ではなかったかと勘繰っている。徳川が悪いと強調する、あるいは思わせることが、いわば成り上がり者の集まりであった明治の権力者やその継承者にとっては必要であったのであろう。

話は長くなったが、もう少し江戸文化の持つ意味に突っ込みを入れる必要があると思う。今は現在の東京だけを見ているけれども、家康江戸開府当時は、江戸は全くの寒村で、原野の続く武蔵野のはずれに大都市が建設されたのである。我々は江戸の人を江戸土着の人のように思っているけれども、その多くは関西ないし西方からも渡ってきたのである。西国諸藩の人々によって埋め立てが行なわれ、堀が開かれ、すでに18世紀においてすらロンドンをしのぐといわれていた大都市が生まれたのである。当時の江戸はアメリカ史に模して言うならば、いわば日本の西部(ウエスタン)で、開拓地で、夢見る男達が集まって来ていた。醤油が黒くても、味噌汁が塩辛くても、そのウエスタンの文化がいなせ≠ニいう価値観を生み、上方の雅やか≠ノ伍してきたのである。

因みに江東の埋め立て開発は摂州人の深川八郎右衛門等によって行なわれ、佃島は同じく摂州佃島からの移民によって開発されるなど、摂州人の江戸建設に残した足跡も大きいのに、今 このことが忘れられている。先に述べたように、江戸は元々土着の住民は皆無に近く、全国からの移民によって開拓・開発されたもので、このように見てくれば俗論の東西文化比較論など、ガセネタ以外の何物でもない。しかし今ではテレビなどによって全国の言葉も文化も自然に共通化され、六本木でも堀江でも同じスタイル、同じ持ち物、同じ話しぶりの若者を見ることができるのである。

俗論の東西文化比較など、冒頭に述べた極悪メディアの悪乗り以外の何物でもない。

上方文化の「文楽」も、江戸文化のいなせ≠ゥら生まれた「江戸歌舞伎」も、共に日本文化そのものとなっているのである。


(平成19・4・25 澤田 和也)