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随 想

=====大正ロマンと阪神間======

 東大弥生門前の竹下夢二美術館を訪れた。瞬間私は父母や祖母のことを思い出した。この夢二が描いている女性。細長い首でなよなよとした腰、夢見る瞳。そこにかもし出される大正ロマンティシズムはまさしく幼年時代父母や祖母の持っていた雰囲気そのものであった。「帝国陸海軍ハ本八日未明西南太平洋ニオイテ英米軍ト戦闘状態ニ入レリ」大本営陸海軍部発表の平出大佐のキンキンした甲高い声が流れるようになってからでも、父母のどこかにモダンでハイカラな雰囲気があった。祖母は明治21年生まれであったが大正時代に30代を過ごしている。父母以上にものの考え方に柔らかさがあった。何か言うと「大きな声では言えないが・・・」とか「兵隊さんのことを思うと・・・」という枕言葉がつくが、今から思うと棘々しい軍国風潮を市井のコトバでロマンの世界をつくりあげていたのであった。
国民服、ゲートル、もんぺ等軍国の衣装が表て着に使われるようになっていたが洋服ダンスの中にはロマンの時代をそのまま残す着物や洋服が入れられていて、子供ながらにモダンを感じ取ったのであった。
 ものの本によれば、大正時代は日本にとって欧州から遠く離れたアジアで戦火にさらされることなく軍事物資やその他の製品を大量生産し、欧米に輸出し濡れ手で泡の大儲けをした時代で、特に関東大震災で東京が壊滅的に打撃を受けてからは川崎造船を中心とする阪神工業界は空前の活況を呈し、この世の春を謳っていたという。
 トンカツもキャラメルもコロッケもその頃日本語に登場したともいう。大正2年に小林一三が宝塚音楽学校を開き、大正時代に阪神間の洒脱な住宅が電鉄会社から売り出され今の阪神間が形作られたともいう。あの阪神間の余裕ある庭付き住宅が建売であったなど全く今の我々には想像だにつかないことである。話しは変わるが私の母校甲南高校も当時の産業界の巨頭平生釟三郎によってその時創られたのだという。先日東京で甲南高校の同窓会が開かれたが歴史好きな級友と「阪神間も甲南もはたまた『細雪(ささめゆき)』の世界も大正ロマンシティズムが生んだものだね。」と囁きあった。
 現在よりも、物質的、技術的に社会生活のレベルは低かったかもしれないが、今日の日本文化を形作る元となったのもこの大正ロマンシティズムではなかったかと、夢二美術館をめぐりながらも私を育ててくれた父母のよき時代に思いをはせるのであった。

(平成22・6・15 澤田和也)