平妖伝
6 文彦博、三遂を用いて王則を討つ
さて聖姑姑は、王則と胡永児との婚礼を早速執り行わせることにした。王則は天子の服を身につけ、永児は皇后の衣装をまとって、王侯さながらの豪華な式を行ったのであった。
その後王則は、州の知事から給料をもらえないでいる兵士たちのために銭や米を支給してやった。実はこの銭と米、張鸞や蛋子たちが貝州の倉庫から盗み出してきたものである。知事はこの事を知って激怒し、王則を捕らえた。しかし王則は既に兵士たちの信頼を得ている。黜児は威風堂々とした神将に変化して兵士たちに檄を飛ばす。王則は黜児や兵士たちに救い出され、見事知事を討ち取った。王則は民衆や兵士の支持を得て新たな貝州の支配者となった。そして城の守りを固めさせたのである。
王則が貝州で謀反を起こした事はすぐに宋の都に伝達された。仁宗皇帝は文武両道と名高い劉彦威(りゅうげんい)に王則と妖人たちの討伐を命じた。しかし劉彦威の軍は黜児・張鸞・卜吉の三人に散々痛めつけられ、三戦して三回とも敗北するというありさま。そして王則と胡永児はそれぞれ軍を率いて邯鄲(かんたん)・広平など河北の十数県を陥落させ、領土と人民を得て大勢力となった。王則は多くの人民から信望を得ているのを見て取り、自ら東平郡王(とうへいぐんのう)となった。そして胡永児を皇后とし、聖姑姑を聖母娘娘と崇め、黜児を国舅軍師に、張鸞を丞相に、卜吉を大将軍に、蛋子を国師にそれぞれ任命したのである。
しかしその後、王則は女色にふけってぜいたく三昧の生活を送る。永児も同様に美男を侍らして遊び暮らす。黜児はと言えば皇后の兄の地位を鼻にかけて勝手気ままのやりたい放題。任遷・呉三郎・張屠も地方の州知事となって人々から財産を貪り取るというありさま。蛋子と張鸞・卜吉の師弟は王則たちの振る舞いに失望し、彼を見限って貝州から去って行った。
さて、仁宗皇帝は包龍図に、誰に王則を討伐させるべきかと相談する。包龍図は老臣の文彦博を推薦した。この文彦博こそは、則天武后の晩年に張昌宗らの佞臣を討伐し、唐王朝を復興させた張柬之(ちょうかんし)の生まれ変わり。則天武后の転生である王則の討伐には誠に適任である。文彦博は意気揚々と河北へと出立した。彼は妖術を破る法を心得ていたので、妖人たちを相手に善戦する。
その頃、蛋子和尚は紫金山に隠遁していた。そこに突然、昔蛋子が白雲洞から如意宝冊を盗もうとした時に、彼に助言をしてやった老人が訪ねて来た。老人の正体は、何と白猿神の袁公であった。袁公は天界の玉帝から、蛋子に如意宝冊を授けた件を咎められていたのである。袁公は彼を師匠の九天玄女のもとへと導いた。九天玄女は蛋子に、如意宝冊の百八の秘術のうち天三十六の破邪法を授け、今までの罪滅ぼしとして王則の一党を彼の手で討つように命じた。
貝州軍も、無論このまま引き下がらない。今度は聖姑姑が直々に出陣し、妖術で天候を操って朝廷軍を劣勢に追い込む。文彦博は逃げ延びる途上で、諸葛遂智(しょかつすいち)と名乗る老和尚と出会った。実はこの諸葛和尚、蛋子が変身した姿である。彼は朝廷軍の軍師となり、聖姑姑の妖術を打ち破った。王則は形勢不利なのを見て、城に閉じこもって一向に出てこようとしない。
文彦博は事態を打破するために、かつて王則の親友であった馬遂(ばすい)を貝州に派遣した。彼はうまく貝州の城に入り込み、張屠の妖術を封じて彼を死地に追い込んだ。その上王則を暗殺しようとしたが、これは王則の前歯を折り、唇を裂かせただけで失敗に終わった。この様子を見て、貝州の楽人である李遂は王則に降伏を勧めるが、聞き入れられない。そこで城を抜け出し、文彦博のもとに投降してしまった。李遂は早速諸葛遂智とともに、工兵を率いて貝州の城に至る穴を掘り始めた。
穴が貝州城に至るや、朝廷軍の兵は大挙して城になだれ込んだ。李遂と諸葛遂智は王則・胡永児・任遷・呉三郎を次々と捕らえていく。黜児も九天玄女の雷に打たれ、狐の姿をさらして死んでしまった。聖姑姑はと言えば、やはりこれも九天玄女と袁公に捕らえられて天界の牢へと送られてしまった。かくて貝州における王則の乱は鎮圧されたのである。
その後、王則と胡永児たちは貝州の地で処刑され、その首は都まで送られた。仁宗皇帝は反乱が平定された事を聞いていたく喜び、文彦博を国公に封じ、彼を推薦した包龍図を次相に任命した。これ以後仁宗皇帝は、賢臣を登用して善政を敷いたので、その在位中は国がたいへん安定した。
さて、聖姑姑と蛋子たちはあれからどうなったのであろうか?聖姑姑は天界の玉帝の命により、袁公に替わって白雲洞を守ることとなった。事実上の監禁である。袁公は晴れて天界の司書に復帰した。張鸞と卜吉は、天台山で修行に励み、特に卜吉は八代目の徽宗皇帝の頃まで生きていたとのことである。蛋子はと言えば、戦いの後に諸葛遂智の変装を解いて元の姿に戻り、甘泉寺にこもって即身成仏してしまった。ミイラとなったその遺体は、土地の人々から弾子菩薩、蛋頭菩薩などと呼ばれて長く崇められたそうである。