〔HP開設1周年記念特別企画〕・・・2000.3.29初版・・・2002.9改訂版・・・ Home "B-29 English"


超・空の要塞 B-29の追憶

第2章 B-29の真相を求めて

B-29:米陸軍航空隊重爆撃機(第2次世界大戦)


1.B-29の真相を求めて

HPで公開
この度の墜落現地”そだめ”訪問で、私の幼少の記憶が極めて不確かなものである事が理解出来ました。しかし、当時の状況の理解はかなり進みB-29の入り口にさしかかった感じです。

私の半世紀の思いである、パラシュート降下搭乗員が無事に帰還したかという情報は確認 できません。彼ら(B-29とP-51の搭乗員)の消息を確かめる手段は米国の国防省の膨大なGHQ調書を調べるしないのかと思われます。日本軍の当時の調書は連合軍の責任追求を恐れて総て焼却したという。当時事件に関与した方はほとんど亡くなっています。万事窮すかと思われましたが、現在はIT時代です。これまでに分かった事をHPで公開し、訪問者から寄せられた貴重な情報も公開することにしました。

そこで早速米国のHPでB-29を検索すると多くの情報が公開されていました。身近な疑問から理解を深めて楽しむことにしました。

B-29搭乗員は何名であったか?
この度の訪問で、B-29搭乗員は、焼死体7名とパラシュート降下1名の計8名が確認されました。 この他に何人かの搭乗員がいたと思われます。そこで米国のB29関連のHP(注1)を調べて見ると、

The crew of the B-29 was typically eleven, comprising pilot, copilot, bombardier, navigator, flight engineer, radio operator, radar operator, central fire control gunner, left side gunner, right side gunner and tail gunner. The first six crewmen were housed in the forward pressurized cabin. The next four were housed in the rear pressurized cabin. The tail gunner was in a separate pressurized compartment in the tail. Later in the war, the crew size was occasionally increased to 13 with the addition of two radar/radio operators to man the radar and electronic countermeasures equipment.


B29の搭乗員は、通常は11名、その内訳は、機長、副操縦士、爆弾投下係、航行針路係、 機関士、無線通信士、レーダー操作、中央砲手統制、左側砲手、右側砲手、後方砲手、 で、総員11名です。従って3名が不明であり、前方キャビンで任務についていた機長、副操縦士、 爆弾投下係、航行針路係の4名中3名が焼失し、その内の1人がパラシュートで降下したと推測できます。 そして、後方キャビンで任務についていた兵士が黒焦げで残存したと思われます。

B-29、7機編隊の飛行目的は?1945年1月3日の爆撃情報?

彼らは晴天の正月3日に何しに来たのだろうか?米軍B-29出撃全リスト(注2)によると、 当日は、サイパン島イスリイ飛行場を97機のB-29が発進し、内57機が名古屋ドッグ地域に焼夷弾と爆弾を 投下した。この日は日本軍の迎撃激しく、多数の戦闘機の攻撃で、損失5機と記録されている。 この他にも、被弾機はかなり出た模様です。その損失5機の内の1機が”そだめ”墜落機である。 従って、B-29の7機編隊は、名古屋ドッグ爆撃後の帰路であったと判断されます。

〔損失5機の機体NO〕
そだめ墜落機:B29#42-24766
その他損失機:B29#42-63418, B29#42-24626, B29#42-24748, B29#42-24550(注8)


その時”B-29から宙吊りになった男”がいた(注2)
1945年1月3日、名古屋を爆撃したB-29”American Maid”は名古屋上空で被弾。 その瞬間、機内で気圧の急激な変化が起こり、胴体銃手のティム・クランツ軍曹が射撃照準窓から 吸い出されてしまった。以下は米陸軍のグラフ誌”YANK”が伝えた事故の顛末の要約です。
〔名古屋上空の空中ブランコ〕
その事故は”Maid”の3度目の出撃の際に起こった。本機はそれ以前の出撃でもトラブルに見舞われて おり、最初は第3エンジンからファンが脱落。2度目の出撃で胴体上部照準窓が破損し、銃手のハート曹長が酸素不足で失神 していた。この物語のクランツ軍曹はこの事故に不安を覚えた。というのも、彼の持ち場である胴体 側面照準窓は人間の身体が通り抜けるには充分な大きさであったからである。彼は万一に備え、 予備ストラップを追加しようと考えた。仲間達はクランツが神経質過ぎるた笑った。

その日”American Maid”は編隊の最後尾に位置していた。この日、日本軍の迎撃は激しく、多数の 戦闘機が向ってきた。突然、胴体側面の照準窓が破裂し、クランツ軍曹は機外に吸い出された。 ”American Maid”は6方向から日本機隊の攻撃を受ける。このためクルー達はクランツ軍曹が機外 に吸い出されたことに気づかなかった。直後機内では急激な気圧低下で白い霧が発生、 銃撃された負傷者も出て大混乱であった。その後、クルーはクランツのいないのに気付き、さらにクランツ の足が割れた窓に引っかかっているのを認め、ハーネスを掴んで引き上げようとする。 この状況は、隣を飛行中のデイトン大尉がカメラに収めた。

機内に引き上げられたクランツの顔は凍った血で覆われていた。彼は顔面蒼白で、白目を剥いだ眼球 は半ば凍っていた。彼らはクランツが死んでいると思ったが、酸素マスクを当て、やがて意識をとり戻す。 クランツ軍曹は後部与圧室のベッドに寝かされて モルヒネの注射と血漿の点滴をうけた。命に別状は無かったものの、冬季装備なしで高度9600m、 −40℃の外気にさらされたため重度の凍傷となり、ハワイの病院へ送られた。

《コメント》 現実は空の上も下も地獄であったと思います。ところで、ボーイング社はこの事件の再発防止でジャンボジェットの窓を小さくしたか?


墜落時の残存燃料は何リットル?
B29の行動半径は爆弾の搭載量と飛行高度にもよりますが、大略2600kmでこれは Guam島と日本本土の距離に相当します。燃料タンクは満タンで35klですので、まだ片道分の 17.5klは機内の燃料タンクに残存していたことになります。これはタンクローリー一杯分のガソリンです。 この燃料が裏山で黒煙を上げて燃えた光景を想像下さい。

トヨタ自動車は何故B-29の爆撃から免れたか?
トヨタ自動車20年史(注7)は次ぎのように後輩に伝えています。
”挙母(ころも)工場へ1トン爆弾が落下”昭和20年8月14日午後2時ごろ、挙母(現在の豊田市)の上空に現れた3機のB29が、超大型爆弾(1トンあるいは、それ以上といわれています。)を投下しました。1個は前山社宅付近、1個は矢作川沿いの今(いま)、そして1個は、我が挙母工場に落ちました。1機が1個ずつ、合計3個の爆弾を落としたわけです。

挙母工場に落ちたのは、落下点が可鍛鋳物工場と第2鋳物工場の中間の空地であったため、被害は、主として爆風によるもので、さいわい、従業員は、工場外あるいは防空壕に避難していましたので、人命の被害はなく、可鍛鋳物工場と第2鋳物工場の電気炉の電気関係装置の損害を除いては、被害はあまり大きくありません。・・・中略・・・あわせて、当時の金額で239万6千円の損失でありました。しかしこれは、挙母工場全体の2%にしかあたっておりません。

戦後、まもなく、アメリカ軍が我が社の空襲で受けた被害状況を調査に来ました。そのとき見せてくれた爆撃の計画表によると、この8月14日の爆撃を手はじめに、3〜5日間にわたって、挙母と刈谷を攻撃する予定になっていたことがわかりました。かりに8月15日をもって終戦とならず、戦争があと1週間も続いていたとすれば、挙母、刈谷地区に密集しているトヨタ系各社の工場は、壊滅したかもしれません。

自動車工業は、アメリカの日本本土爆撃目標の第1目標ではなかったため、それまで、戦闘機による機銃掃射のほかは、たいした被害を受けなかったわけです。

P.S: トヨタを訪問したB-29 3機は何れも原爆投下の特別編成部隊第509CG所属です。 投下した爆弾は、原爆の模擬弾で、通称”パンプキン”と呼ばれたものです。(注11)

B-29による最後の爆撃は何処か?(注2)
米空軍公表のB-29出撃全リストによると、日本本土への最終攻撃は1945/8/14から15にかけて809機がテニアン・ サイパン・グアムを発進している。爆撃地は、光海軍工廠・大阪造兵廠・岩国市・日本石油(秋田市)・熊谷市・伊勢崎市及び鳴門海峡、七尾、浜田、宮津、への機雷投下が行なわれた。当時は日本軍の迎撃も無く、損失機ゼロと記録されている。
これらの出撃機中の3機が挙母工場(現在のトヨタ本社工場)を爆撃したと思われます。 したがって、トヨタへの爆撃は、最終爆撃の一つと判断されます。

B-29は何機生産されたか?(注1)のHPより工場別に私が集計
B29量産モデルは、2513機、改良型のB29A・B29Bを加えると総計で3943台が製造された。
@B29型内訳:
Boeing社Wichita,Kansas plant. 1620機/1943年9月〜1945年/10月
Martin社Omaha,Nebraska piant. 536機/1944年/年央〜1945年/9月
Bell社Marietta,Georgia plant. 357機/1944年2月〜1945年1月
AB29の改良型内訳:
B29A=1119機. Boeing社 Renton plant/ 〜1946年5月
B29B=311機、Bell社Marietta,Georgia plant/1945年1月〜1945年9月
B29C=生産前に契約破棄

B-29の開発物語・カンサスの戦い(注10)
”4,000機近くも生産され、第2次大戦のの傑作機に挙げられるB-29、技術力の粋を結集して生まれたこの怪鳥の開発から運用までの苦闘の記録”が”歴史群像”2002.4.1発行(青柳安彦氏提供)されました。B-29の模索から勝利へのドキュメントです。

僅かな開発期間での大増産です。その修羅場は、後に”カンザスの戦い”と呼ばれ壮絶であった。その「戦場」となったのはカンザス州であった。

『全く新設の工場でボーイング社の生産現場スタッフは1944年4月までに早くも97機のB-29を完成させていたが、そのうち飛行できるのは16機に過ぎなかった。残りの81機は一部の部品や装備品が届かずに取りつけられていないままだったり、 搭載されていても不具合があったりで、飛行不能であった。

B-29の生産には機体メーカーとエンジンメーカーだけだなく、装備品も含めて無数の下請け企業が関与していたが、あまりもの急速な機体量産計画の進展に、それら下請け企業が追従できずにいたのである。

とくに問題だったのはR-3350エンジンであった。機械として十分に熟成される前に量産に入ったため設計上のミスや組立不良に起因する故障が続発した。しかもその対応のために次々に設計変更や改修が加えられたため、部品供給は大混乱となった。・・中略

それでもエンジンの最大の弱点であるオーバーヒート癖は直らなかった。その原因の一つは、機体側の設計にあり、空気抵抗軽減のためにカウリングがエンジンの大きさぎりぎりに作られ、エンジンまわりに十分な空気が行き渡らなかったからである。・・・中略

しかしエンジン側にも問題があり、シリンダーヘッド部分の潤滑が不足気味で、これがオーバーヒートするとバルブが飛んで、火災が発生した。また9基づつ2列に放射状に並んだシリンダーの間に冷却空気を通すため、バッフルという板があるが、これが損傷したり取り付けが歪んでいたりすると、たちまちオーバーヒートして、しばしば火災に直結した。・・略』

その他数々の問題解決の為に多くの関係者は文字通りの不眠不休の作業が開始された。 1944.3アメリカ中西部は冬がいつまでも去らず、厳しい寒さが続いていた。カンザス州の各地の基地やウイチタのボーイング社工場では、野外のエプロンでボーイング社やライト社、それに陸軍の技術員たちが雪と寒風の中で、B-29の巨大な機体に取りついて作業を行った。

その努力の結果、5週間後には100機のB-29が軍に引き渡された。これら技術員たちの苦心は、後に”バトル オブ カンザス”と呼ばれ語り草となっている。

《コメント》戦後の復興で頑張った皆さんも体験済みですよね。Me too.

米空軍第20航空軍(20AF)の編成(注2)

B-29部隊は、第20航空軍隷下で下記の2爆撃兵団で編成。

@第20爆撃兵団(XXBC)
⇒58爆撃航空団(BW)基地:カルカッタ・成都近郊⇒隷下に4爆撃飛行連隊(BG)⇒それぞれに4飛行隊(BS)
・・・爆撃目標は、南方・中国・台湾・九州地区各軍事施設・八幡製鉄所など

A第21爆撃兵団(XXIBC)
⇒73爆撃航空団(BW)基地:サイパン島イスリイ飛行場⇒隷下に4爆撃飛行連隊(BG)⇒それぞれに3飛行隊(BS)
・・・爆撃目標は、南方・日本本土各軍事施設・市街地無差別爆撃、以下同じ。
⇒313爆撃航空団(BW)基地:テニアン島北飛行場⇒隷下に5爆撃飛行連隊(BG)⇒それぞれに3飛行隊(BS)
⇒314爆撃航空団(BW)基地:グアム島北飛行場⇒隷下に4爆撃飛行連隊(BG)⇒それぞれに3飛行隊(BS)
⇒58爆撃兵団(BW)基地:テニアン島西飛行場⇒隷下に4爆撃飛行連隊(BG)⇒それぞれに3飛行隊(BS)
⇒315爆撃兵団(BW)基地:グアム島北西飛行場⇒隷下に4爆撃飛行連隊(BG)⇒それぞれに3飛行隊(BS)

⇒その他、偵察撮影、地図作成、硫黄島を基地にした救助隊など。

(注): BC: Bomber Command, BW: Bomberdment Wing, BG: Bomberdment Grope, BS: Bomberdment Squadron

B-29は延べ何機出撃したか?・・・答え:26,814機
米空軍公表のB-29出撃全リスト(対日戦)より、爆撃兵団別の月別発進数・損失数を集計し下表に示す。ただし、天候・地形・戦果などの偵察飛行は含まず(注2)
年月XXBC発進数XXBC損失数XXIBC発進数XXIBC損失数合計発進数合計損失数
1944/6166機12機-------166機12機
71145------1145
817116-------17116
92174-------2174
10310536機0機3465
1139015303569320
12335155261986134
1945/1466456527103131
2490487625136629
33992253632293534
4------325952325912
5------433885433885
6------528242528242
7------603523603523
8------308711308211
合計3,0588223,75632126,814403


《まとめ》

@損失機数合計=403機(どこかの資料で485機という数字もあった。事故機の扱い?) 
A延べ出撃発進数=26,814機(XXIBCは月毎に増強され稼働率を上げた。実際に目標地に投弾した機数は0.7から0.9掛け)
BB-29損失率=403/26,814=1.5%
CB-29犠牲者=403 X 11人/定員=4,433人 -( 捕虜生存者32名+α)-太平洋へ着水救出=約1,500〜 2,000人?
D日本の犠牲者=軍事施設・全国主要都市壊滅・広島&長崎原爆=約600,000万人(推定)
Eガソリン使用量=26,814回 X 35kl /15kl(タンクローリー1台分) = 62,566台分

〔コメント〕 当時米国のB-29生産能力は増加中、この程度の損失では減る事はなく出撃機数も日増しに増加。B-29の整備・補給・海上救出体制は万全。1945.8.14の最終日の出撃は809機、1分間隔で5飛行場から離陸させた。上の写真、戦いが終わりサイパン島イスリイ飛行場滑走路に並ぶB29群。

日本軍のB-29撃墜王は誰か?
樫出 勇氏の空戦記録(注4)、によると彼は飛行第4連隊で2式複戦「屠龍」によるB29迎撃戦で撃墜王の名を馳せた。樫出 勇大尉は、B29の初回本土爆撃(昭和19年6月16日中国の成都から 発進の八幡製鉄爆撃から昭和20年8月15日の終戦までの間に、夜戦迎撃死闘を展開しB-29を26機撃墜した。彼は1985年に米国大使館で、B-29捕虜生存者で著名なハップ ハローラン氏と対面した。

「B-29野郎が恐れた屠龍」川崎キ-45改二式複戦、(連合軍呼称”Nick”)。 離昇出力1,080馬力2基、最大速度540Km/h。B-29迎撃用キ-45改丙、武装37mm機銃 X 1、
20mm上向銃 X 2。東京防空では陸軍飛行第53連隊(松戸)、常陸教導飛行師団(水戸)、北九州では飛行第4連隊が活躍した。 (注7)



B29のエンジンは何馬力か?(注2)
離陸時:2,200ps/2800rpm x 4基 =8,800ps
緊急戦闘時:2,300ps/2,600rpm x 4基=9,200ps/高度25,000feet(7600m)
エンジン: ライトR-3350 空冷18気筒星型複式(9気筒 X 2段)ガソリンエンジン
      GE製ターボチャージャ 2基装着

〔追記〕エンジン総排気量:54,860cc (筒径155.6mm、行程160.2mm) X 4基 =219,440cc
・B-29のリッター馬力=41.9馬力/2,600rpm/高度7,600m (1957年代のクラウンのエンジンのリッター馬力=38.7馬力/4,400rpm/標準大気圧)。
右の写真は、 ドイツKMT GmbH社の Gerd Kramer氏提供,今でも新品のB-29エンジン。
B29の構造・先進性?(注5)
B-29の構造と先進性を探るために、米空軍のB-29操縦マニュアルの翻訳本(注4)を調べました。 B-29は当時米国が総力を上げて死に物狂いで量産した最新鋭の爆撃機です。その中身は下記のHPをご覧下さい。
"B-29写真博物館"・・・ 超空の要塞の先進性を探る ・・・


B-29HPの反響
日米を中心に韓国、ドイツを含めて2年間で100件近くのMailをいただきました。 B-29への関心の高さに驚きました。年齢は小学生からシニアーにおよびます。 内容は、夏休みの宿題でB-29の調査に役立った。93才の父が中国の南京でB-29を撃墜したという当時の情報を知りたい。 ボストン在住の著述家Michael Dana Kennedy氏 は是非とも英文のSiteを出してくれと言う。かれの励ましで英文のSiteができました。以後は米国からの情報が入るようになりましたが、HPを訪問してMailを出す人はB-29搭乗員の2世か孫です。私のB-29搭乗員に対する想いを理解してエールを送ってきました。またB-29マニアからは最近修復して飛び上がったB-29の写真、戦時中のB-29日本爆撃の新聞記事など、またドイツからはB-29のエンジンの写真をいただきました。しかし、なかなか核心の情報は入りません。しかし、日本も米国もB-29への関心はかなりの手応えがあります。特に米国はB-29の戦友会のHP"B-29 Superfortress Then and Now"が示す様に部隊毎、Crew毎の情報交換や会合が持たれているようで今後が楽しみです。

朝倉昭二様からのBBS投稿文
B29 の記事を読んで 投稿者:朝倉 昭二  投稿日:04月06日(木)00時24分51秒
こんにちは。5技-品保金材-三好などにいました朝倉です。tyotty こと、河合さんからのご案内で 貴HPを拝見しました。 B29 墜落のことをよく調べられましたね。貴君の根気に感心しました。 あの当時、私は岡崎市の稲熊町と梅園町の境に住んでいて、國民學校4年生でした。 墜落のことは直後に聞いていました。ただ、場所は岡崎市の東方と聞かされていました (ひとり合点かもしれません)。大きな落下傘や機内の遺留品の展示会が岡崎であって、 先生に連れられて見に行きました。 名古屋や岡崎の空襲もある程度は憶えています。岡崎の場合は若干の爆弾と多数の焼夷弾でしたが、 焼夷弾は48本の束が落とされ、夜空の打ち上げ花火のように上空で炸裂して、 ばらばらになって広範囲に降ってきました。岡崎の町中が火の海になるのを見ていましたし、 通っていた学校に落ちて焼けていくのも 無心に眺めていました。屋根の上に落ちたのを棒で払い落とす勇敢な人もいました。 これらのことはかつて原稿にしたことがあります。 のちに、不発弾を触って死傷した人がちょいちょいいました。

関連情報:私の同級で友人の近藤一正さん は、当時岡崎市の朝日町にすんでいた。 家の前が岡崎市公会堂で、そこでB29の遺留品の展示会をやっていて1人で見に行ったそうです。 展示会では大きな落下傘と米兵の家族の写真とかじりがけの林檎が気になり記憶に 残っているそうです。

岩田正治様からe-mailでの便り
思い出しました。私は国民学校3年生でした。 天気のよい日だったと思います。いつものように B29の編隊が名古屋方面から飛んできました。 B29がくるようになった最初の頃はB29は高いところを 白い飛行雲を引いて飛んでいましたが、 昭和20年頃はずっと低いところを飛んでいて機体が よくみえました。 編隊の内の一機が煙りを引いているようでした。 やがて編隊からおくれだし、おやおやと見るうちに グラリと傾いて落下をはじめました。 その時の興奮はもう形容のしようがありません。 B29の美しさ、手の触れようもない強さ、神のような 畏懼?の念を持っていたものが、落ちてくる。 一機を残して編隊は隊形を微動だにせず遠ざかってゆくのが 印象的でした。 村の牛乳屋が軍刀を背中にして、自転車でなにかわめきながら 墜落方向へ走ってゆきました。 近く見えたけれども墜落地点はかなり遠かったようです。 岡田さんよく調べられましたね。すっかり忘れていたことを 掘り起こされ、出来事の周辺状況がよくわかりました。 感激しました。有り難うございました。 岩田正治

〔追記〕岩田正治様は当時は高橋村(墜落地点の6km西方)で、 進路からしてほぼ頭上での目撃と思われます。

Kennedyさんに激励されて
下記は、2001.1.3の Kennedyさんからの最初のMailです。このMailのお蔭で、1ヶ月後にB-29の英語版を公開しました。彼は、著述家で、終戦時の日本に関心があります。彼は私の友人です。

『I saw your B-29 website and you did a tremendous amount of work. I wish you had an English website. Thank you,
Michael Dana Kennedy Boston, Massachusetts USA 』

他のB29生存兵の情報
最近(2000.4)”B29墜落・・・米兵を救った日本人・・・草間秀三郎 著/総論社(注3) を読みました。 この本は、当時小学校2年生であった著者が、郷里の茨城県谷田部近く(旧板橋村)に墜落したB29事件 (1945.3.10東京大空襲時に被弾した墜落機)で3人の米兵を救出した勇気ある村人とその米兵への 思いを持ち続けられ、日米間にわたる膨大な事実関係の調査結果を基に1999.7.30発行された 感動、必読の一冊です。

3人の生存米兵は、救出後、軍に拘引、その日のうちに焼け野原の東京に移送され、 その内の重症の1人は皇居周辺の東京外国語学校敷地(現毎日新聞本社)で、陸軍本部将校と憲兵の6人がかりで処刑(斬首)、他の2人は1945.5.20の空襲による陸軍刑務所(現NHK本社)の火災で他の多くの捕虜とともに焼死した。 これが当時の現実であったようです。これから考えて、 ”そだめ墜落B29生存米兵が”無事に帰還できたことが事実としたらそれは非常にまれな出来事で あったように思われてなりません。

この他にも、インターネットのお蔭でB29の生々しい墜落機の2事例を、5項の”B-29関連リンク集”で紹介します。それぞれに、2〜3名の生存米兵がいた模様ですが、何れも悲惨な最期をとげています。

B-29爆撃予告ビラと青森空襲(注9、217頁から)
1945.7.27深夜から翌28日未明にかけて青森市、函館市の上空を2機のB29が横切っていった。B29は多量のビラをばらまいて去っていった。ビラには次ぎの文句が筆書きされていた。

『日本国民に告ぐ

あなたは自分の親兄弟友達の命を助けようとは思いませんか、助けたければこのビラを良く読んでください。数日の内に裏面の都市の内4つか5つの都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します。

この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米軍は破壊しますけれども爆弾には目がありませんからどこに落ちるか分かりません。ですから、裏に書いてある都市から避難してください。

アメリカの敵はあな方ではありません。あな方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。アメリカの考えてゐる平和というものはただ軍部の圧力からあなた方を解放する事です。そうすればもっと良い新日本が出来上がります。

戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか。この裏に書いてある都市だけでなくても爆撃されるかも知れませんが少なくともこの裏に書いてある都市のうち必ず4つは爆撃します。

予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難してください。』

ビラの裏には爆撃中のB29編隊の写真を背景に青森、西宮、大垣、一宮、久留米、宇和島、長岡、函館、郡山、津、宇治山田、の11の都市の名が挙げられていた。

ビラは各都市に6万枚ずつ投下されたがが、こうしたビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、所持した場合3ヶ月以上の懲役又は10円以下の罰金、内容を第3者に告げた場合無期又は1年以上の懲役という罰則が定められ、拾っても中身を読まずに警察、警防団に提出することが国民の義務とされていた。

実際北海道庁警察部の内務省宛て報告によれば、函館に投下されたと推定される36,000枚の内、約28,000枚を回収したとしている。

1945.7.28、青森市役所が「避難者は28日までに復帰しなければ、町会台帳より削除する。したがって一般物資の配給が停止される。」と告知していた事もあり避難先から続々と戻る市民で街は久しぶりに賑わっていた。一方で「近い内に大きいのが来る」という噂も広まっていた。・・・略

21時30分、仙台湾にB-29の大編隊が来襲。B-29は牡鹿半島から秋田県男鹿半島へ本州を縦断、鮫ヶ沢から青森県を目指した。22時10分、空襲警報のサイレンが青森市に鳴り響いた。敵機の来襲を告げるラジオアナウンサーが「青森市民の皆さん、津軽魂を発揮して頑張って下さい」と悲鳴にも似た連呼を繰り返す頃には、12機の誘導機が市民の頭上に飛来していた。

誘導機は目標に照明弾を投下、目標の周囲を焼夷弾で囲み、後続部隊に爆撃範囲を指示する任務があった。それは結果として市民の逃げ道をふさぐ事になった。

灯火管制も意味をなさない真昼のような照明弾の揺らめきの中、焼夷弾は無機的にばらまかれていった。攻撃は4,230〜4,410mの高度から、22:37から23:48の71分に亘って・・・略

この結果、かって人口10万人を誇った青森市は地上から消滅した。一夜明けた市内には至る所に焼死体が散乱していた。治安維持の任にあたる海保良夫県警部長は「これくらいの被害は取るに足るものではない。県は被害に対する各措置につき万全を期しつつあるから県民各位におかれてはいよいよ必勝の信念を堅持し、徒な流言に迷うことなくあくまでも冷静沈着に各職場を守り防空に生産にその本分を尽くされんを切望す」と声明した。・・・略

敗戦直後来青した合衆国戦略爆撃調査団の報告によれば、79,116発の焼夷弾が投下され、市街地の88%が焼失していた。警告ビラには軍事施設を破壊すると明記されていたが、同調査団によれば、貨物飛行機の着陸装置と翼の部品を製造していた東洋製罐工場は見事に焼け残っていた。・・・略』

2.B-29搭乗員の手記

B-29の真相を後世に
日本本土へ飛来したB-29搭乗員の心のうちはどうであったか?B-29は高空飛行であり日本の高射砲は届かないとといわれていました。真相はどうであったか?その疑問に答えるように この本が発売直後に私の手元に届けられました。

さらに、2名のB-29搭乗員の手記が日本語に翻訳され、下記のHPで公開されています。

じつは米兵もギリギリだった(注7)
この言葉は、”B-29日本爆撃30回の実録”の著者Chester Marshall操縦士が、ギリギリで生き延びた心境を表しています。

B-29の日本本土爆撃の当初は夜間の高高度爆撃です。再三の出撃でも中島飛行機武蔵製作所などピンポイント攻撃は目標捕捉もままならず、着弾精度は劣っていました。市街地への焼夷弾爆撃でさえ成果が上がらなかったようです。そして、1945.1.20付けで登場したのが、新司令官のカーチス E ルメイ少将です。彼は、昼間爆撃さらに低高度爆撃を強行します。

諸君、酸素マスクを捨てろ、ルメイここにありが兵団の合言葉となったようです。この一言で、搭乗員は、日本の防衛隊の弾幕と迎撃機の襲いかかるのを覚悟し爆撃飛行を余儀なくされました。実際にその後の爆撃は、出撃前のブリーフィングで、1945.3.25名古屋夜間焼夷弾爆撃6,000ft(1,830m)、1945.4.7中島飛行機武蔵15,000ft(4575m)の昼間空襲などの指示が出て実行された。

そして、Chester Marshall操縦士は、自著の中で、1945.4.7の中島飛行機武蔵の爆撃飛行の状況を次ぎのように伝えています。

『この日、25番クルーが東京上空の恐るべき修羅場をいかに懸命に生き抜いたか、その経過を逐一書いた日誌から、私たちと飛行機に同乗したつもりで実相を窺われたい。

午前10時35分浜松近くの海岸線を通過して東京の目標357(中島飛行機武蔵)を目指す。第878飛行隊は、877と879飛行隊につづく第3編隊で、先行する編隊と一列になって進む。同高度前方を見ると、対空砲火の弾幕の爆煙か黒雲となっている。先頭の飛行隊がこの地獄の業火に捕まっている。我が飛行隊はその60mほど上を、第879飛行隊の直後につづいて飛んでいる。対空砲火は、 我が機の周囲で炸裂し始め、編隊が射程に段段と近づくにつれ弾幕は密度を濃くする。今は奇跡が必要だ。

先導飛行隊が対空砲火の爆煙のなかを突き進んでいるのがどうにか見える。それでも、前方の全機が編隊を維持しているようだ。日本軍邀撃戦闘機がB-29を捕捉しようと上昇してくる。だが、掩護戦闘機P-51は敵機が爆撃機に到達しないうちに叩き落とそうと急降下して行く。様々なことが急に起こってくるので何がどうなっているのか判然としない。

私たちは自分が生き残ることだけに必死に努力を集中する。左側に落下傘が幾つか開いたと射手たちが報してきたが、降下しているのがアメリカ兵か日本兵か見分けがつかない。

任務飛行指揮官機との無線通話は騒然としている。空のどこを見ても日本戦闘機だ。射手たちも 、味方のP-51と敵機の識別に難渋している。B-29の機関銃手の神経は過敏になっていて、日本上空では「超・空の要塞」に似ていない飛行機なら何でも引き金に当てた指が動いて発砲する習慣がついている。

我が機の前方で、日本戦闘機1機がB-29に体当たりしたばかりだ。翼が飛んだB-29がくるりくるりと回転しながら地上に落ちて行く。あの様子では、助かる者はなさそうだ。サザーランドから、別のB-29一機が錐揉みで落下するのが見えると報してくる。

午前11時04分。爆弾投下から2分経過したばかりだ。

日本戦闘機1機が、我が編隊の上に急速に近づいて燐性弾を投下した。一どきに何機かのB-29を叩こうという魂胆だ。その一発がチャールズ ヒッバード中尉機の第1エンジンと第2エンジンのあいだに命中し、発火した火を消しとめる方法がない。

私たちの機の右側をヒッバード機と同じ編隊で飛ぶメーローとホドスンがヒッバードに声を掛け、「火焔が翼を舐めている。翼が溶けて火が翼内ガソリンに回ると、きっと爆発を起こす」と言っている。メーローとホドスンは「乗員を脱出させろ」とヒッバードに頼んでいる。「飛行機を海岸線まで持って行ってから脱出させる」とヒッバードが答える。

わが機はコーツ少佐機の投弾に合わせて爆弾を離していたので、ヒッバード機を見守るだけだが、いつ爆発を起こすか気が気でない。焔は機体全体に回っており、ヒッバードは機の制御を失いかけているらしく編隊から少し逸脱し始めた。

ヒッバードは機首を引き起こしながら、もう2、3分操縦できれば海上で乗組員を脱出させられると頑張っている。同機が左に滑ってわが機のほんの数フィート上に来たたとき、前部隔室のヒッバードと、リーと、ローランドの顔がはっきり見えた。3人が手を振る。それが別れの挨拶だとは私たちにも分かっている。

ヒッバード機がさらに編隊の左の方に滑り出ると、この燃えている日本の戦闘機がまた攻撃を掛け始めた。アンダースン、ホドスン、メーロー各中尉機が互いに被弾機を守ろうと寄り添いながら、なおもヒッバード機に「爆発する前に脱出せよ」と呼びかける。わが機の射手たちから「3、4人が脱出し落下傘が開いた」と報告がある。火焔がますます大きくなっている。

コーツ少佐機が僅かに右旋回している。コックスが増速してぴったり付いて行こうとしていると、日本戦闘機の一編隊が銃火を閃かせてわが機の機首めがけて急降下してくる。射手が一斉に応射する。コーツ機が被弾し、急に出力を失っている。コックスが少佐機の前にのめり出ないように機を懸命に操作する。

ヒッバード機の方を見ると、ちょうど機体が大爆発とともに空中分解し、火の玉となったところだ。 われわれは海岸線を出てまだ二分の位置だ。コーツ少佐から、「機の制御に問題あり、エンジン2機停止」と知らせがある。隊長機が硫黄島まで辿り着けるか、かなり疑わしい。銚子ポイント近くの 海岸を通過して基地に向いながら、私は例になく悲しい思いにとらわれた。私は、身近な戦友数名の死を至近距離で目撃したばかりだった。助けようにも手の下しようがなかった。

ヒッバードと私は、戦前ケンタッキー商科大学で学生時代を共にした友人同士であった。 数日前に、彼は新しく父親になったという知らせを受け取ったばかりだ。彼の喜びようは、隊内で見せていた満面の笑みに顕われていた。・・・略』

Chester Marshall操縦士は、その時の心境を「もし、目標上空で深刻な事態に陥ったら、燃える市街地に脱出しても生き延びられる可能性はまずないので、落下傘ははずしておこうと考えているのだと話した。脱出して降着でき、焼け死なずにすんだしても、きっと激晃した市民に嬲り殺されると思うのだ。そんなことなら、いっそ墜落する飛行機に身を任せる方がいい。少なくとも、その方がひと思いに死ねるだろう。」と語ったと言う。

出撃30回で無罪放免、B-29搭乗員は、通常11名の運命共同体です。Chester Marshall操縦士のCrewは何回も被弾しながら、後何回、後何回と無事を祈りながらギリギリで、爆撃任務飛行30回を1945.6.8に達成した。そして、日本軍の相次ぐ玉砕を尻目に祝杯をあげての帰還であった。彼らのギリギリは生還への希望であり、日本軍のギリギリは片道燃料がギリギリの絶望への出撃です。

3.第2章 まとめ

戦略爆撃機B-29の理解
皆さんからの情報の提供のお蔭で、断片的ですが、それなりにB-29の真相に迫ることができた。

B-29の戦略的効果
B-29による日本本土爆撃は、日本国民の1億玉砕を未然に防ぎ、連合軍の日本本土上陸作戦を不要にした。B-29爆撃の効果を人的損失でみると、B-29乗員1,500人で日本国民600,000人です。米人1人当り、日本人400人を殺戮したことになります。そして日本全体を崩壊させ、武装放棄しないと思われた大本営陸・海軍の息の根を止めた。

B-29の爆撃飛行
B-29は10,000mもの上空からの爆撃であり、日本の高射砲も戦闘機も届かなかったといわれていました。しかし、実際は着弾精度を上げるために、かなり無理をして低空から爆弾を投下していた。そのため403機が日本軍の餌食になった。そして、パラシュートで降下した彼らの多くが処刑(斬首)された。

第3章では、日本上空で被弾した墜落機の捕獲搭乗員は、どのように取り扱われ、処置されたかを究明していく予定です。そして、彼ら(B-29&P51パイロット)の情報に迫ります。ご期待下さい。

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4.〔出典〕
(注1)・・Boeing B-29 Superfortress
(注2)・・世界の傑作機 BOEING B-29 NO-52 1995.5 兜カ林堂、 岡崎市在住 磯谷 進氏提供
(注3)・・B29墜落ー米兵を救った日本人ー 草間秀三郎著、 墜落事件追跡調査  論創社1999.7.30発行
(注4)・・B29撃墜記 −夜戦「屠龍」撃墜王ー 樫出 勇著  空戦記録、  光人社NF文庫、1998.7.12発行
(注5)・・B-29操縦マニュアル 米陸軍航空隊編著 仲村明子 + 小野 洋 訳 野田昌宏 監修  光人社1999.7.30発行
(注6)・・B-29日本爆撃30回の実録・チェスター マーシャル著・高木晃治訳・潟Rネ・パブリッシング、三島市在住 岡田 実氏提供
(注7)・・・トヨタ自動車20年史/1958.11.30発行
(注8)・・青森空襲を記録する会の編集者 中村和彦氏 提供情報
(注9)・・白い航跡/青函連絡船戦災史/北の街社/青函連絡船災史編集委員会/編集者:中村和彦氏 本人より贈呈
(注10)・・戦略・戦術・戦史Magazine ”歴史群像”APR.2002 No52 学習研修社 青柳安彦氏提供
(注11)・・Nagoya Aviation Enthusiasts Society 所属 丹羽八十氏 提供


5.B-29関連リンク集

Boeing B-29 Superfortress B-29 Superfortress Then and Now World War 2 Links 東京大空襲
超空の要塞 B-29戦友会のHP 第2次世界大戦のリンク集 東京大空襲体験者のHP


和歌山県御坊市B29墜落記(1945/5/5) 茨城県岩井市B29墜落記(1945/5/25) B29搭乗員の記録 Backward into Battle
迎撃戦闘機”紫電改”による撃墜、生存米兵の2人の運命は? 戦後50年語られなかった戦後(1995/8/15毎日茨城版)、空中爆発のB29から2人がパラシュートで脱出生存その運命は? 元第314航空団330大隊レーダー観測員の出撃手記、翻訳家:萩野谷敏明氏提供 後尾機銃手Andy Dotyの記録、翻訳家:萩野谷敏明氏提供


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