〔HP開設1周年記念特別企画〕・・・2000.3.29初版・2002.9第4回更新版・・・ Home "B-29 English"

超・空の要塞 B-29の追憶

第1章 B-29墜落現地を訪ねて

B-29:米陸軍航空隊重爆撃機(第2次世界大戦)

墜落地点:現 愛知県豊田市坂上町そだめ・王滝渓谷最奥部の裏山)


〔はじめに〕

日本の敗戦時(1945/8/15)私は国民学校一年生でした。この幼少の追憶の中にB29撃墜事件が よぎります。当時B-29による日本本土への無差別爆撃が日増しに激しくなっていました。 私は、B-29焼夷弾による東京大空襲(1945.3.10 焼死者10万人)の時は淀橋区西大久保 (現在の新宿区)で空襲を体験、その後、岡崎市に疎開し、B-29による名古屋空襲と岡崎空襲の焼夷弾による 壮絶な夜空を目撃しました。

そんな中で、私の住んでいた鎮守の森の近くに米陸軍航空隊のパイロットが落下傘で降下しました。 近くの岡崎航空隊(海軍の予科練)の憲兵が彼を捕まえ後ろ手の目隠しで、 まるで小人が赤鬼を捕まえたようにして郷中を引き回し航空隊の中に消えて行くのをいつまでも見ていました。 当時、B-29が撃墜され村積山(岡崎市の北部の山)の方向に煙を吐いて墜落したと言う情報があり 、私は、その後もずっと降下パイロットはB-29の乗員と思っていました。

その後55年間その彼が終戦後無事に本国へ帰ることか出来たのだろうかと言う思いがありました。 そして55年の歳月が経ち、同年輩の友人からのe-mailで終戦当時の出来事が話題になり、 その翌日B-29墜落地点の近くと思われる焙烙山麓(豊田市東部の山)の山荘で新年会がありました。

朝食時に山荘の奥さんに55年前の出来事を聞いてもよいかと尋ねたところ、私はまだ産まれていないと叱られました。 でももしかしたらと思いB-29事件を尋ねました。 するとその奥さんは、それは私の在所(実家)の出来事で何度も聞かされて知っています。 墜落地点は、現在の”豊田市坂上町そだめ”(王滝渓谷古美山園地の西側100m)で、 当時、村人は黒焦げの搭乗員の死体を哀れみ、村の火葬場で火葬したと言う。

そして、2000/3に念願のB-29墜落地点を訪問いたしました。 同世代以上の方はB-29には忘れられない思いがあると思いますのでこの機会にその状況を報告致します。


1.B-29仕様

”ボーイングB-29爆撃機仕様”(坂上町誌より)
全長・・・・・・・30.18m
翼幅・・・・・・・43.05m
重量・・・・・・・64トン
航続距離・・・6,600Km
最大速度・・・567Km/h
武装・・・・20mキャノン砲 x 1・機関銃 x 10・爆弾 9,090Kg
乗員・・・・・・・10人

写真:B-29操縦マニュアル 米陸軍航空隊編著 仲村明子 + 小野 洋 訳 野田昌宏 監修  光人社1999.7.30発行

米空軍公表B-29仕様 (詳細は”B-29写真博物館”をご覧下さい)

Powerplant: 動力装置:
Four Wright R-3350-23 Duplex Cyclone eighteen-cylinder air-cooled radial engines each with two General Electric turbosuperchargers, delivering 2200 hp for takeoff and having a war emergency rating of 2300 hp at 25,000 feet.

ライトR-3350空冷星型複列(9X2気筒)エンジン4基/GE製ターボスーパーチャージャー各2基装着 ・ 離陸時2,200馬力 ・ 緊急戦闘時2,300馬力/高度7,620mにて。

Performance:性能
Maximum speed 357 mph at 30,000 feet, 306 mph at sea level. Maximum continuous cruising speed 342 mph at 30,000 feet. Economical cruising speed 220 mph at 25,000 feet. Initial climb rate 900 feet per minute at combat weight. An altitude of 20,000 feet could be attained in 38 minutes. Service ceiling 33,600 feet. Maximum range was 3250 miles at 25,000 feet with 5000 pound bomb load. Practical operational radius was 1600-1800 miles. Maximum ferry range was 5600 miles, rising to 6000 miles with the extra fuel.

最高速度576km/h/9,144m ・ 452km/h/海面・最大巡航速度492km/h/9,144m ・経済巡航速度354km/h/7,620m ・ 初期上昇速度274m/min/戦闘重量 ・高度6,100m到達時間38min ・ 実用上昇限度10,241m・航続距離5,230km/7,620m/爆弾搭載量2,268kg ・ 作戦有効半径1,575〜2,897km ・ 最大自力空輸距離9,012km、特別燃料で9,656km以上。

Weights:重量
74,500 pounds empty, normal loaded 120,000 pounds, maximum overload 135,000 pounds.

空重量33,793kg ・ 正規搭載54,432kg ・ 最大積載61,236kg。

Dimensions:寸法
Wingspan 141 feet 3 inches, length 99 feet 0 inches, height 27 feet 9 inches, wing area 1736 square feet.

全幅:43.10m ・ 全長:30.18m・全高:8.46m ・ 主翼面積:161.50m2

Armament:武装
Twelve 0.50-inch machine guns in four remotely-controlled turrets (two above and two below the fuselage) and in the tail, each with 1000 rounds of ammunition. In addition, early production blocks had a single rearward-firing 20-mm M2 Type B cannon with 100 rounds in the tail position. Later, two more guns were provided for the forward top turret. Maximum internal short-range, low-altitude bomb load was 20,000 pounds. A load of 5000 pounds of bombs could be carried over a 1600-mile radius at high altitude. A load of 12,000 pounds of bombs could be carried over a 1600-mile radius at medium altitude.

12.7mm機銃 X 12挺(内、遠隔操作機銃 X 4挺/胴体上部2挺、下部2挺および尾部機銃) 、各機銃毎に銃弾1000発 ・ 尾部銃座20mM2B型キャノン砲/銃弾100発を初期生産機に追加 ・ 後期、上部前方機銃座に機銃2挺追加配備 ・ 短距離低高度爆弾搭載量44,092kg ・ 高高度、半径2575km爆弾搭載量11,023kg ・ 中高度、半径2575km爆弾搭載量26,455kg。

《コメント》
私は最初にB-29の理解を深めるために、米空軍関係のHPより、その仕様を見つけて確認しました。私はこの確認の過程で、彼らが日本本土爆撃にあたり如何なる準備をしてきたかがよく分かりました。すなわち、日本の戦闘機の攻撃に備えて機体の上下・左右・前後に機銃を配備しました。さらに、グアム・サイパンから2500km彼方の日本本土への爆弾搭載量については、飛行条件を考慮し高率的な出撃を意図しているようです。大戦末期のB-29出撃は中高度で多量の爆弾を搭載して飛来し着弾精度を高めていたと思われます。

2.墜落現地(豊田市坂上町そだめ)を訪問して

”B-29墜落現場地図(坂上町誌)”

いよいよ55年前の追憶を訪ねる時が来ました。あまり関心の無い妻とデジカメを携え 遠足気分で出かけました。墜落地点は右図の@です。豊田市街からR301号を東進し 松平橋を左折、しばし北進し王滝渓谷駐車場をやり過ごし500m程先の売店を右折 、車1台がやっとの山道を2Km程登った山中でした。

近くには数軒の村落が2つありその中間の 山中に轟音と共に頭から墜落したそうです。その下の道路脇に下の写真のような 記念の案内板が当時を偲ばせていました。



〔墜落当時の配置図〕

右図の番号
 1:B-29落下地点
  (大字そだめ字空田の山林)
 2:プロペラ心棒民家直撃地点
  (大字下屋敷 鈴川銀多老 宅)
 3:プロペラ落下地点
  (豊栄橋東大字杉木字向川畔の田)
 4:米軍兵士落下傘での落下地点
  (下山村山地)



”B-29墜落現地風景(2000/3)”

”そだめ”の民家を過ぎるとすぐに目指す”B-29墜落地点の案内板”が出現しました。 左手には少し離れた所に民家が数軒ほどののどかな山村です。あの集落に墜落しなくてよかったと思うほどの至近距離です。

近くで畑仕事中の方を訪ねました。 その方は、墜落時はまだ0才でした と前置きして、当時のこと、更に墜落地点について 説明して下さいました。そして、マイカーの左奥の山林が墜落地点で今はその後育った 杉山ですが、少し掘ると焼け焦げた黒土が出るそうです。

詳しい話しは、更に山奥の仁王町(旧地名)の太田優さん(元校長先生)が坂上町の写真集を 編集中で、その方に聞いて下さいと言う。早速訪ねることにしました。



”B-29墜落地点の案内板(2000/3)”

私は案内板を見て唖然としました。なんと昭和20年1月3日墜落です。 私はB-29の墜落は昭和20年の夏の事件と思っていたからです。(その訳は後日判明)

看板の隣には、撃墜状況と墜落後の新聞記事が掲示してあり、それを見て事件のあらましが理解出来ました。

”そだめ”と言う字は、左の案内板のように”木 へんに是と言う字に立”と書きます。 難漢字にもありませんので済みません。この案内板からさらに100m先が”古美山園地” でそのすぐ下が王滝渓谷の梅林です。



”B-29墜落現地風景(2000/3)”

旧仁王町の太田優さんを訪ねました。突然の訪問にも拘わらず、大歓迎で迎えられ ました。コーヒーをいただきながらのお話が続きました。そしてB-29事件は”坂上町誌”に 当時の状況が載っているので参考にして下さいと教えて下さいました。

お話の中で、墜落直前に脱出しパラシュートで焙烙山麓に落下した兵士への村人の対応 に心を打たれました。その兵士は着陸後身の危険を感じ、山中の芋釜 (サツマイモの貯蔵用の穴倉)に身を隠していました。

穴の中は暗く、顔も汚れて黒く 発見された彼も、それを発見した村人も大変怯えていたそうです。しかし村人は 怯えながらも竹の先に焼き芋を刺して食事を与えたと言うエピソードを聞くことが出来ました。 その後、その米兵は生きて本国へ帰ったであろうと村人は思っていました。




”醜翼谷間に砕く”

昭和20年1月6日朝日新聞記事

墜落3日後の朝日新聞の愛知地方版は次の様に伝えていました。
〔愛知県東加茂郡松平村墜落現場にて羽田、浅井両記者発〕

「3日午後3時ごろ敵7機編隊が愛知県西加茂郡挙母町西方上空しさしかかったとき 果敢な友軍機の体当たりにより、うち1機はみる間に火を吐き巨大な醜翼はのたうつ如く 東加茂郡松平村そだめの雑木山の小さい谷間に墜落して砕け散った。

ここ現場は岡崎市へ5里、挙母町へ2里、足助へ4里といふ山間で足助街道から山へ 半里奥まった谷間である。粉砕された敵機は火達磨で谷の斜面にぶつかったために 残っているのは尾翼から約10米位、他の部分は砕け散ってをり、この尾翼にNO224766とあり。 掘り出された敵屍7、その他の鬼どもはこなごなに砕けているのも痛快だ・・・」

*機体NO224766について、尾翼の部隊識別記号Z□22を含めて米国のHomePageで 調べた結果所属部隊も明らかになり、該当機は、Boeing社製造の Boeing B-29 Superfortress1620台中の1台であることが確認できました。

ただし、彼らのシルアル・NOは、7桁で、42-24766の頭の4を省略して機体に表記したと判断。 該当機の型式は、B-29-45-BWで、100機製造された。以上



”墜落したB-29の残骸”

(豊田市の朝倉昭二様提供)
出典:1937−1945:人々の暮らし −戦時統制下の暮らしを中心に− 豊田市郷土資料館編集、1995年 7月15日発行 から抜粋

45年1月3日 (朝倉注、年号は西暦。=昭和20年) MISSION No.17の爆撃は名古屋市街地と港湾施設が爆撃目標でした。この爆撃では焼夷弾を搭載して地域爆撃のテストを行っています。 73爆撃団(BW) 97機が出撃して57機が主目標を爆撃し、21機が臨機の目標(大阪)を爆撃しています。

この出撃では18機が攻撃前に基地へ戻り、また、戦闘その他で5機が失われています。 この5機の内、行方不明が3機、基地へ帰投する際に太平洋へ着水したのが1機で、残りの1機が敵機により失われたとされています。

この1機は名古屋郊外で日本の戦闘機の攻撃を受けて東加茂郡松平村に墜落した機で、 その識別番号(Z□22)から、73爆撃団(BW) 500爆撃航空軍(BG) のものであることがわかっています。 この機のクルーの消息については地元の証言にばらつきがあり、はっきりしたことはわかっていません。

残された写真から機体の指傷がかなりひどいことがわかります。 1月4日と5日の中日本新聞にはこの墜落の記事が記されています。

また、14日の中日本新聞の記事によると、 この機体の一部が名古屋市鶴舞の名古屋市公会堂前に14日から16日まで展示されることがでています。 墜落したB29を展示することによって国民の戦意高揚に利用しています。





B-29撃墜・・・戦闘機”飛燕”の体当たり・・・

”代田実中尉の勇猛を称える後の記事”
代田実中尉(陸士56期,群馬県出身)は愛知県民の見守る中で、現在の豊田市南西部上空 で見事な空中戦を展開し七機編隊の先導機を撃破した。

〔当時の目撃者談〕
@岡田久夫さん:豊田市畝部東町、当時小学校3年生

現上郷地内で戦闘機”飛燕”が晴天の正月3日午後見事な空中戦をしたのを目撃しています。 その状況は、B-29の背後のほぼ真下から敵機めがけて急上昇し翼に激突し撃破した 瞬間を記憶されていました。

A岡田惣一さん:豊田市上郷町、当時トヨタ自動車社員

彼は、当時のトヨタ自動車工業の社員で、 当日は出勤していたが工場内(現在の本社工場)から南の方角での空中戦を目撃したと証言された。

B中村直人さん:豊田市保見町西古城72、T14、当時伊保原航空基地内の愛知航空機に勤務

彼は、航空基地内から勤務中に飛燕体当たりを目撃、被災機をずっと追視した。 従って、飛燕パイロットの落下傘がどこへ降りたかは見ていないという。 体当たりした場所を尋ねると、現在の三好CCの上空当たりと語った。 2014.3.20 保見地区戦争遺跡調査時に自宅を訪問聴取・2014.7.10追記

〔飛燕〕
油冷の傑作機、川崎キ・61三式戦闘機・連合軍呼称"Tony"・離昇出力1,175馬力、最大速度580km/h・標準武装12.7mm機銃 X 2、 20mm機銃 X 2 。東京防空では陸軍飛行第244戦隊(調布)、第18連隊(柏)、名古屋では第55連隊(小牧)、阪神・名古屋・九州では第56連隊(伊丹)が活躍した。(注1)

”代田中尉を称える当時の第55戦隊記”

代田中尉は体当たりのあと落下傘で脱出し,西加茂郡保見地内の山林に落下したが 、受傷のため翌4日に戦死されました。



”代田実 中尉の写真”

私は、この貴重な写真を、2006.2米国のKen Fine氏から入手しました。 彼が英国のイラストレーターのMark Stylingから入手し、そして私に送ってきた。 Ken Fine氏はそだめ墜落機"The leading lady"のナビゲーターKenneth F.Fine少尉の息子さんです。その父は、1945.1.3には搭乗しなかった。

代田実 中尉は、比島派遣の一員だったが、守備隊長を命じられて、1944.12下旬に帰還した。そして、1月3日にB29を撃墜して戦死されました。 ご冥福をお祈りします。

写真・情報出典:
記録写真集・日本防空戦・陸軍篇
(pictorial Hisory of AIR WAR OVER JAPAN Japanese Army Air Force)



〔王滝渓谷の梅林〕

B-29墜落地点から徒歩で5分位のところに”王滝渓谷の梅林”があります。 2月上旬から3月上旬が見ごろです。豊田市近辺の方は王滝渓谷への散策の 機会もありますので、この記事をご覧の方は”B-29墜落地点”へも足をのばしてください。

そして、先の大戦のあしあとに思いをはせ、当時の”鬼畜米英”の戦時下でも、 B-29は”そだめ”の集落に突っ込むことなく、村人も米兵への礼節を怠る事も無く 、そして、”そだめ”の集落は55年目の春を迎えていました。

3.”坂上町誌”記載のB29記事全文紹介”

第2節 「B29」のそだめ墜落
 ・・・平成3年3月30日発行 坂上町誌:217頁〜223頁・・・

「米軍爆撃機B29」がそだめへ墜落しました。
太平洋戦争の末期、昭和19年11月に米空軍超大型爆撃機編隊が初めて日本の本土に飛来して、 東京都を空襲爆撃を敢行し、その後、日本各地の爆撃を行った。そのB29が、 昭和20年1月3日午後1時30分頃、東加茂郡松平村(現豊田市坂上町)大字そだめ字空田 12番地の山林に墜落した。

今も語り草とされているB29の巨大な偉容は、完全に日本上空の制空権を手中にして、 高高度の大空へ四条の飛行雲を長く引いて、悠々と編隊で、大空を我が物顔で飛行して いたと言う。

通常名古屋市の爆撃には御前崎から侵入して本土上空を西に向かって目標地点に至る 航空路を飛行していた。

何年も続いた戦争のために、とりわけ昭和20年の正月は淋しい正月を迎えた。
青年、壮年のほとんど男子は戦場に行って故郷の留守を守っているのは、婦人、老人、 子供等であり、少しの雑煮を分け合う形ばかりの正月で、戦争には盆も正月もなかった。

1月3日、その日は晴天で無風のよい天気であった。名古屋市上空を7機編隊の「B29」が東へ向かって 飛行していた。その時、日本軍の戦闘機1機が急上昇して「B29」の1機に体当たりを敢行した。 一瞬ピカッと光を発し、体当たりをした日本機は黒煙を吐いて墜落した。 この瞬間を多くの人が見て知っている。「B29」の巨体もこの体当たりに耐える事が出来ず、 編隊を離れ、黒煙の尾を引きながら蛇行しつつ飛行を続けた。

この体当たりの一瞬を「あいち航空史117」に当時の新聞記事をまとめて次ぎのように載っている。
「小牧の第55戦隊の、代田実航空中尉は、名古屋市上空でB29を発見し、先頭の隊長機へ 機首を向け、正面から撃って火を吐噴かせた。後、反転して右翼に体当たりをしていった。 東加茂郡松平村(当時)にB29は落ち、代田中尉はパラシュートで西加茂郡保見町篠原(当時) の山林に降りた。この日本機は「飛燕」と言う。地元の人たちが助けたが代田中尉は腹部 内出血がひどく、翌4日に息を引き取った。」

地元の古老はこの日のことをよく記憶している。昭和20年の1月3日晴れ渡った大空に、 B29巨体がゴウゴウと大音響をたてて、黒煙とともに地上に接近して来た。「飛行機が落ちるぞ」 と皆が叫んだ。あの巨体が落下しだしたのだ。松平村大字そだめ、下屋敷(当時)の真上である。 ゴウゴウと谷間にこだまする音は物凄い。B29のプロペラの一つが下屋敷の上空で吹っ飛んで、 機体が傾き前進不可能になって墜落し始めた。

このプロペラは豊栄橋の東側の田(現坂上町向川畔6、杉木共有田)へ落ちて突きささった。 プロペラの心棒と思える直系15cm、長さ40cmの鉄棒が大字下屋敷日面23(現坂上町)鈴川銀多老の住家の屋根を突き抜き、梁 (直径40cmの木材)を折って土間に突きささった。この時銀多老夫婦は戸外に居て難をのがれた。

B29が下屋敷の真上まで来た事は落下物により確実と思われる。そのまま落下したなら、 真下にあった7戸は全焼し、死者も多かったと思われる。幸いにも、墜落の寸前で機体は大きく 反転し、”そだめ”の山林に落ちたので死者はなく、被害が少なかった。

B29の機の長さは30m、翌幅43m、巨体を空いっぱいに、ゴウゴウと轟音すさまじく谷をゆすっている。 瞬時、誰も死ぬかも知れぬと思った。判断力を失って、口で何か叫びながら「どうしよう、どうしよう」 と右へ走る者、左へ走る者、寝床から子供を連れ出し、逆に抱いた婦人は東の防空ごうに向かって 走った。寝たきり病人を背負った人は西へ走った。

反転したB29の巨体はそだめの山林へ頭部を突っ込み、巨体を突っ立て、轟音と共に黒煙を高く 上げて火達磨となって燃え出して、7名の米軍兵士は黒焦げとなって機内にあったが、1名は落下 直前にパラシュートで脱出し、六所山と焙烙山の間の下山村地内の山林へ降下した。 彼は山狩りによって逮捕された。

「B29が落ちたぞ」と叫びながら、そだめや、下屋敷の人々は墜落現場の山へ向かって走った。 墜落した場所は、そだめと下屋敷の境界近くの、そだめの雑木と竹林との混合林であった。 物凄い黒煙と、パンパンと大きな音がして恐ろしかった。爆薬と竹が火熱で破裂するのだ。 最初に駆けつけた人は5、6人であった。爆弾も破裂するのではないかと心配であった。 火勢が強くなって来て山火事が起こりそうで、急いで火道を切って防火に努めた。

機体の火力は衰えなかった。人数は増えて来たが、水利は極めて悪く、火の衰えるのを見守るだけである。 戦争中で「鬼畜米英」が合言葉であった当時ではあるが、異国の名も知れない地で黒焦げになって 死んでいる悲惨な姿を見て、敵意を抱く人は少なく、この屍に鞭打つ人はなかったが、馬鹿でかい 軍靴の裏がこちらを向いていて異様な感があった。夕方近くには軍関係者が来て調査を行い、 地元の警防団員が警備の任にあたった。翌日から多勢の人が遠近から訪れ、「そだめ」の名が広く 知られたのである。

この7名の米兵は、地元そだめの警防団員中根勘市さんが責任者となって、ムシロを二つ折りにして担架を作り、 そだめ村の火葬場まで運び、荼毘(だび)に付した。空襲を恐れて昼間だけにし、夜は火を消し、 三日間かかって骨として、同墓地に埋めたと言う。

この機体の残骸を処分することになり、のちに軍部が解体して豊栄橋まで人力で運搬した。 田へ落ちたプロペラは、現松平中学校で展示されたが 、戦後連合軍へ届け出て、押収された。

「B29」墜落の後日談
昭和20年8月15日、日本の敗戦となり、連合軍が上陸して種々の占領政策がなされた。 同年10月、米兵が来て中根勘市さんをジープに乗せて連れ去った。勘市さんはそだめ集落の警防団員 で、B29の墜落米兵を荼毘に付した責任者であった。その調査のため連行されたもので、 村人や家族は処刑されるのではないかと心配したが、簡単な取調べで帰宅することが出来た。

昭和21年8月松平村役場へジープに乗った2名の米兵が訪れ、B29の墜落地について調査すると言う。 当時役場にあった寺澤藤一書記が案内をする事になって、ジープに同乗した。 戦勝国の黒人の米兵で、何かうすきみ悪く、道中は一言も口をきかなかった。 簗山(現王滝町)からそだめ集落の入り口付近までジープで登坂し、後はB29の墜落した山林まで歩いた。 途中彼らはネギ畑に入って、ネギを根こそぎにすると、ネギの白根の部分をガリガリと食べ始めたので 寺澤書記はびっくりしたと言う。

現地で、焼跡に伸びた草の中に遺物を探したが、何も見付ける事は出来なかった。 又、当時の痕跡を示す程の変化も認められなかった。火葬場へも行き調査したが、残骨も無く、 彼らは「OK」と言って、この調査は無事終了したのであった。

今日では墜落した山林も樹木が伸び、当時の事を知っている人でないと、その場所を探す事が 不可能なほど原状に戻っている。墜落後何年かして、その下を通る道路が出来て、 その路傍に「B29」墜落地と案内板が出してある。



4.”豊田市戦時関係資料集・第2巻 戦時体験記録集43,44頁全文紹介

B29が火だるまで松平の山の中へ・中村秀雄氏の戦時体験より
太平洋戦争も末期、空襲警報の日々、名古屋の空がよく見える滝脇小学校〔国民学校〕時代である。 名古屋を爆撃するB29に撃ち向かう高射砲の弾はB29に届かず、花火のような煙が空に散る。 爆撃を終えたB29がキーンキーンと金属音の爆音を響かせて松平の上空を飛び去って行く。

迎え撃つ日本の飛行機は見られない。桝塚飛行場の赤トンボ(練習機)も影をひそめる。青い空をみつめて、 日本の戦闘機を待った。一機二機黒い小さな日本の戦闘機が姿を見せる様になった。 銀色に輝き白く長い飛行機雲の尾を引くB29、迎え撃つ日本の戦闘機は鷲に挑むスズメのよう、 B29の編隊に向って全面より突っ込んで行く、ダッダッダッ、B29の機関砲の壮烈な音、角度はいい、 体当たりと見ているとB29は猛然とスピードを上げ避けて行く、

日本の戦闘機は二度とB29を追いかけることは出来ない。松平村上空での空中戦、 雑木の山の陰でまた松の木に登って、七つボタンは桜にイカリと予科練飛行士にあこがれていた。 学校が休みで、雪の残る山間の坂道で、自分で作った竹のスキーで一人遊んでいた。 突然、頭上で大きな音、見上げるとB29が真っ赤な焔を吹き出し、銀色の翼を回転させ真逆さまに 墜落してきた。高い空からみるみる大きくなって裏山でドーンと凄まじい爆発の音。落ちた方向の 山へと走った。上空を日本の戦闘機が山頂をかすめて落ちていった。

体当たりの瞬間は見なかったが谷間からものすごい黒煙が上がっている。緑の木が燃える近くへは 行けない。翌日墜落したB29の現場へ行った。えぐられた山はだ、焼け残った雑木、その中に 大きなB29の尾翼が原形を残していた。

散乱する機体、かたわらにあったムシロを何気なくめくった。 焼けただれた人体、手、足、そのむごさに私はその晩、食事をすることは出来なかった。

体当たりでB29を撃墜した日本の戦闘機の勇士は近くの山の谷間に激突し、戦死された。 墜落するB29から一人のアメリカ兵が落下傘で降りた。松平の奥深い山の中、 炭焼き小屋にひそんでいるところで捕虜となった。B29の尾翼の上に赤いリンゴが一つ置かれて いたのを今も思い出す。


5.至近距離目撃者の中根ミツエ様を訪問(2000.4.21)

松平町コミュニティーセンターからB29の墜落目撃者 中根ミツエ様 を紹介して戴きました。

ここが坂上町そだめ宮下3の中根家です。すぐ左隣が米兵を荼毘(だび)に付した当時の 警防団員中根勘市さん(故人)のお宅です。中根ミツエ様は当時20才で、中根家へ嫁いで2年目 のお正月、夫の出征中にB29が目前に墜落したわけです。

そだめの家のたたずまいは当時とほと んど変らず55年後の現在でも2軒増えて9軒だそうです。 当時B29に直接拘わった方は全員亡くなってしまい、目撃者も現在は2名しかいないそうです。 中根家は、墜落地点から西方150mの至近距離です。



その中根家のお庭からの眺めです。この写真の中央の竹薮が墜落地点です。 なんとも言えないのどかな山村の風景です。

中根家の縁側で墜落地点を眺めながら当時の お話を伺いました。そして、55年前の墜落時の村人の行動をイメージすることが出来ました。 中根ミツエ様は、ご主人も無事に復員し、現在は息子夫婦とお孫さんに囲まれて 幸せにお暮らしです。

最後にミツエ様は、B29墜落の恐怖を思い浮かべながら、その後 無事に過ごすことが出来、今日このようにB29の話しが出来て大変幸せに思います、 としみじみと言われました。



〔中根ミツエ様のお話〕
この辺はB29の通路でいつも名古屋の方向から上空を通って東へ向かっていた。 その日もB29の大編隊が東方へ向かう、庭先きでそれを見た瞬間1機が外れた、 頭上で火を噴き落ちてきた。慌ててかけだし10m程走ったところで(未だ屋敷の中)で 目の前の竹薮に落ちた。何しろ物凄い音と竹の爆ぜるような音がひどかった。 家が焼けると思い家の中に入って貴重品を探そうとしたがパニック状態でなにも出来なかった。

翌日見に行った。米兵の遺体は、2人は姿があり並べてあった。他は黒焦げであったと思う。 遺体は、縄で縛り、それに竹竿を通して2人で担いで家の前の小道を村の火葬場まで運ぶのを見た。 墜落後じきに日本刀を2本さした軍人(技術将校?)がB29の調査に来た。2〜3人づつ何回も 自宅に泊めた。B29の戦利品(残骸)は、近くの畑に並べた、いくつもの山が出来た。 墜落後1ヶ月位は家の前の小道を見物人の列が弘法さんのお参りのように続いた。

その後もB29がよく来るようになり、名古屋の空襲の時に、これから艦砲射撃があり、 敵が攻めてくると言う話し(デマ)あり、恐くてあごががたがたと震え止める事が出来なかった。 日本は負けると思ったが、そんな事は言えないのでじっと黙っていた。

いまから、4年位前に、落下傘降下米兵のその後の消息を聞いた。 B29墜落地点の隣のほら(窪地の小さな畑)でのら仕事していたら、王滝山荘に遊びに来た 知人(真垣内出身、現在:豊田市在住、蟹さんの奥さん))が訪ねてきて、 B29の話しになり、落下傘降下米兵は、現在もまめに(元気で)アメリカで暮らしており、 炭焼き小屋に隠れていたら、日本人が餅をくれた、美味しい水もくれた、 お礼が言いたいと言っているとのこと。

〔追記〕 後日、蟹さんの奥さんに電話で確認したところ、豊田市東新町の中山三郎さん に聞いたと言う。彼は、陸軍少年飛行兵学校の全国組織の愛知少飛会の会長で情報通らしい。 そこで、中山三郎さんの息子さんに電話で確認すると父は4年前(or1年前)に死亡し、具体的な消息は 聞いていない。父の友人の愛知少飛会の事務局長で名古屋在住の加藤昌宏さんに聞いて下さいと言うことで、 電話で確認しましたがそのような情報は聞いていませんでした。

この他にも、戦後本人がお礼に訪れ、足助町のお寺の住職が通訳をしたなどの話も聞きましたが、 事実関係はまだ確かめられません。どうやら、この事実関係を確かめるには、米国の国防省の 膨大なドキュメントを調査するしか方法が無いのではと思われて来ました。そして、何時の日にか 事実関係が確認できる事を楽しみにしています。

6.B-29墜落地訪問後記

幼少の記憶
この度の”そだめ”訪問で、私の幼少の記憶が極めて不確かなものである事が理解出来ました。 私の記憶は、B29墜落は終戦間近の夏の出来事の様に思っていました。それは、「はじめに」の項で 述べたように、私の住んでいた現岡崎市宇頭町の鎮守の森の南側に米空軍のパイロットが落下傘で降下した 事件の強烈な記憶と1945年3月に疎開してから再々聞かされたB29墜落の伝説が混在して パラシュート降下事件イコールB29事件として記憶されていたようです。

しからば、私の見た”捕まえられ後ろ手目隠しの米兵”はなにであったかという疑問は、当時 青年であった叔父さんに再確認したところ、それは当時毎日のように飛来した艦載機のパイロットという。当時、私の疎開先の近くの岡崎航空隊(枡塚航空隊)が撃墜し、隣村(現安城市尾崎町) のお宮の東付近に墜落したそうです。そして墜落現場も確認していて機種はP-51という。 この時捕虜となったパイロットは地元の噂では直に処刑されたという。 しかし、真相はわかりません。

私は、当時襲来した戦闘機を間近にし、その機銃掃射に怯え竹薮に逃げ込んだ体験があります。 それは艦載機であったと思っていました。しかし私の目撃した捕獲パイロットはP-51の搭乗員です。 当時両戦闘機がどのようにして日本本土に飛来したか疑問が残ります。その後の訪問者”青森空襲を記録する会の中村和彦氏(注4)からの情報で理解が進みました。

艦載機

日本近海の太平洋上(約200Km沖)の米空母から飛来した戦闘機。逆ガル翌の高速戦闘機、F4U『コルセア』。出力2,100馬力、最大速度718km/h、標準武装12.7mm機銃 X 6。アメリカ海軍・海兵隊ともに使用し、空母搭載・陸上基地両用など。(注1)


P-51

第2次世界大戦の傑作機、ノースアメリカンP-51『マスタング』。出力1,490馬力、最大速度703km/h、標準武装12.7mm機銃 X 6。硫黄島を基地にした米第7戦闘機兵団が1945.4.7の東京空襲以降B-29の護衛に出動した。(注1)

7.第1章まとめ

私は、この度B-29の追憶を求めて墜落現地を訪問し、B-29に再会した想いです。そして関係者のご協力と米国のB-29HPにより下記の情報を確認することができました。今後、これらの情報を基に、HP訪問者の支援をいただきながらB-29の追憶を膨らませていこうと考えています。

@時刻・墜落地点
昭和20年1月3日(快晴)午後3時頃
現、豊田市坂上町そだめ(古美山園地の西側100m)
A撃墜状況
7機編隊が名古屋港地区爆撃の帰路現豊田市南部上空(トヨタ自動車本社南西上空、現、豊田市大成町から鷲鴨町上空?)を通過中先導機の下から飛燕が体当たりし撃破。 機体は煙を吐いて村積山上空をかすめて左旋回しながら墜落。当日は快晴で西三河地方の多くの人が目撃した。

その後の、ききとり調査で、下記の中村直人氏の情報がより正確と判断し、追記します。

飛燕が体当たりした場所は、その後の目撃者訪問取材(2014.3.20)で、当時伊保原航空基地内の愛知航空機に勤務していた中村直人氏は、 現在のみよし市三好CCの上空当たりと語った。その状況は、下記の”マップ”をクリックしてご覧ください。

B29 目撃情報 マップ 2014.10.13編集掲載

BB29パラシュート降下米兵の逮捕
彼は墜落直前にパラシュートで脱出し豊田市東部の焙烙山麓の炭焼き小屋近くに(3名の方が証言された) 落下し、その小屋に隠れていたところを発見された。逮捕状況は、いろいろなエピソードから判断し、ひどい仕打ちは受けずに救出されたと思われる。
C墜落機の所属部隊・機体NO
米空軍XXI爆撃司令部(BC)・73爆撃飛行団(BW)・ 500爆撃連隊(BG)・882爆撃飛行隊(BS) 所属・尾翼の部隊識別記号Z□22・サイパン島イスリイ飛行場発進・ 機体NO4224766
USAの戦友会HP”B-29 Then and Now"にはLost date 3 Jun 1945 W/Hurldutt Crew. Nick name "Leading Lady"生存者の記録は0(注2).
D被害状況
日本・・・戦闘機1機・パイロット1名戦死、山地焼失、
米・・・B-29、1機・10名焼死(定員より推定)・捕虜1名

EB-29捕虜の消息
逮捕後憲兵隊に拘引された後は不明。終戦まで生存し帰還しさたという噂がある。
F私が夏の日に見たパラシュート降下米兵は?
硫黄島から飛来したP-51ムスタングのパイロット(注3)。このパイロットの消息は、岡崎航空隊近くの人の証言は、逮捕後まもなく処刑。ただし、その証拠はなし。

8.〔参考資料〕

(注1)・・・B-29日本爆撃30回の実録・チェスター マーシャル著・高木晃治訳・潟Rネ・パブリッシング
(注2)・・・B-29 Superfortress Then and Now米国B-29戦友会HP2000.4頃当時)
(注3)・・岡崎市宇頭町在住 P51撃墜目撃者 柴田忠一氏
(注4)・・青森空襲を記録する会・白い航跡/青函連絡船戦災史/北の街社 編集者:中村和彦氏


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