3.音楽としてのレクイエム
ヨーロッパ社会で10世紀という時代は、人々の意識の上に明確に捉えられてはいなかったが、一つの変革を準備する予兆の時代であったかも知れない。しかもそれは、近代以後の歴史では、いつも旧態依然の典型のように言われてきたカトリック教会の中から生まれていた。変革の種子が蒔かれた地盤はベネディクト派のクリューニー修道院 L'Abbaye de Clunyであった。創立(910)当初の院長はベルノで、彼の後継者と共に修道院建築、精神生活の改革をめざし、当時の主要ヨーロッパの修道院に大きな影響を与えている。その一人にフランスの哲学者ピエール・アベラール(ペトルス・アベラルドゥス)は、ソクラテスのように「汝、自らを知れ」を標榜し、「個」の自覚を促した。結局、彼は異端とされるが、彼のめざした世界観はローマ・カトリック教会に波紋を投じた。ローマ教会に受け入れられなかったが、ドイツのルーペルツベルク女子修道院長ヒルデガルト・ビンゲン(27)も「個」の音楽を作り始めた女性作曲家であった。それまで教会音楽は、グレゴリオ聖歌に代表される単旋律の音楽だったものが、多声音楽に発展していった。「個」の思想が教会の定型から脱して新しい時代精神を発展させるものとして芸術は最適のジャンルであった。とくに音楽は「個」を主張する作曲家が、新しい響きを作るのはもっとも顕著な「個」の活動であった。そして、新しい種子が芽生えたのはルネッサンスになってからであった。フランスの東、フランドル地方に発展したブルゴーニュ公国で活躍したギョーム・デュファイGuillaume Dufay(1400?-74)がいる。多声のレクイエムの最初の作曲家といわれているが、作品が確かに現存するのは、ベルギー東部、フランドル楽派のヨハンネス・オケゲムJohannes Ockeghem (28)(1425?-97)からである。しかし、この時代はカトリックの「レクイエム」といえども、地域によって様式が異なり、現在、私たちが聴く「レクイエム」とはかなり違う。次にレクイエム作曲家として知られているのは、やはりフランドル派のピエール・ド・ラ・リューPierre de La Rue(1460?-1518)である。少し遅れて同じフランドル派にローラン・ド・ラッススRoland de lassus;Orlando di Lasso(1532-94)(29)がいる。この頃から『ローマ式ミサ典礼書』に基づいて作曲され始めているが、「グラドアーレ」「セクエンツィア」は入っていない。しかし、この時代のレクイエムでは、スペインのトマス・デ・ヴィクトリア(1548-1611)が、1604年に死去したスペインの皇太后マリアの葬儀のために書かれた『六声部のレクイエム』(30)がある。透明なハーモニーで芸術的なレクイエムの最初の作品といってもいいだろう。カトリックではないが、ドイツではシュッツが書いた『音楽による葬儀』Musikalische Exequien(SWV279-281)(31)は、言うならばプロテスタントの「レクイエム」であり、のちにブラームスの『ドイツ・レクイエム』に影響を与えたドイツ語による作品として見逃せない。シャルパンティエ(1635-1704)になると規模も大きくなり、教会を超えて大きな会堂でも十分なソノリティを響かせるようになった。カンプラのレクイエム(32)は、初めからノートルダム聖堂という空間を考えて作曲されたらしく、高い天井に響く残響は圧倒的な感銘を与える。もともとこの聖堂で演奏されるオルガンの響きが作曲上のお手本になっているので、その効果は当然であろう。18世紀になると、レクイエムは、単なる葬儀のための典礼音楽というよりも、作曲家の芸術的感覚の発揮の機会として会衆からも期待され、作曲家もそれに応えようとして才能を発揮するようになっていった。レクイエムの演奏史上、最高の作品と考えられるモーツアルトのレクイエムは、誰あろう、まさに彼自身のために演奏されるために作曲されたように思える。1991年12月5日、モーツアルト没後200年を記念してウイーン、聖シュテファン大聖堂で演奏されたLD(33)はその感を深くするものであった。モーツアルトは、続唱「涙の日」Lacrimosaの8小節目でペンを擱くことになったが、まさに「涙ながらの曲」になった。
近代以降のレクイエムは、「怒りの日」がどのように構想されたかによって分類出来る。「怒りの日」Dies iraeそれに続く「不思議なラッパ」Tuba mirumで死後の審判の恐怖を語り、ラッパが響くとき審判の開始を告げる。ベルリオーズ(34)は特大の楽器編成でこの部分を表現する。初演はサン・ルイ教会で行われたが、拡大された四管編成(ティンパニ10対)に、聖堂の階上四隅にブラスを配置し、400人を超える合唱団を用意した。「入祭唱」は「怒りの日」と「不思議なラッパ」に向けて心の準備をするように作曲されている。これは教会音楽の域をはるかに超えたものだった。それに続く作品としてヴェルディ(35)のかなりオペラティックなレクイエムがある。ヴェルディもベルリオーズのように階上にブラスを配置する。ヴェルディのレクイエムで特徴的な部分は、「リベラ・メ(われを解き放ち給え)」Libera me で、ソプラノの語りかけるような祈りでこの曲を閉じる。ブラームスが個人的に愛したドヴォルジャーク(36)のレクイエムもある。それに対してフォーレは「怒りの日」「不思議なラッパ」の部分を除く。その代わり「楽園にて」In Paradisum を終曲に配した。審判の恐怖を最大限に表現しようとしたベルリオーズ、ヴェルディに対して、フォーレの優しさが対極にある。モーツアルトはその中間というところか。『ローマ・ミサ典礼書』から典礼文を選んで作曲したレクイエムはモーリス・デュリュフレ(1902-86)(37)で最後になるのだろうか。第2次大戦後に発表されたブリッテンBenjamin Britten(1913-1976)のレクイエムは、『戦争レクイエム』War Requiem (38) と名付けられ、全体の構成はローマ典礼風に作曲したが、ラテン語の典礼文と第1次大戦に参戦して戦死したウイルフレッド・オーエンの詩を用いている。このレクイエムでは、ラテン語と英語が交錯する。ブリッテンは、実際には二つのレクイエムを『戦争レクイエム』で合体させたのである。伝統的なレクイエムを、ソプラノ独唱と合唱、大編成のオーケストラで、オーエンスの9つの詩は、テノール、バリトンと室内オーケストラで演奏し、この両者が交互に演奏する。三管編成、多数の打楽器、混声合唱と少年合唱に室内オーケストラが加わる。「怒りの日」は伝統的な立場に立っている。ウェッバー
Andrew Lloyd Webber(1948- )は、《ジーザス・クライスト・スーパースター》《エヴィータ》《キャッツ》《オペラ座の怪人》の作曲者と言って方が通りがいい。少年時代、ウエストミンスター男子校で学んだウエッバーは、イギリスの大作曲家であったヴォーン・ウイリアムズの追悼式に参列した日のこと、ブリッテンの『戦争レクイエム』の初演を聴いた日のことを感銘深く記憶していた。その上、ウエストミンスター寺院のオルガニストであり、宗教音楽の作曲家であった父の死を記念し、彼に捧げるためにレクイエムを作曲したと言われる。しかし、それ以外に現代作曲家らしい理由がある。カンボジアでポル・ポト派による虐殺が全土を吹き荒れていたとき、一人の少年が、手足を切断された姉を殺すか、自分自身が殺されるか二者択一を迫られたとき、少年は姉を殺す方を選んだというニューヨーク・タイムズ紙の記事を読んだとき、現代人に迫られたレクイエム作曲の必然性を感じたのである。編成にボーイ・ソプラノが入っているのはそのためである。現代人のレクイエムの中では傑出している。(39)ラテン語の典礼文に従っている。日本人作曲家のレクイエムでは三善晃の作品がある。これは典礼文によるレクイエムではない。日本が戦争を通じた体験を詩人、小学生、海軍特攻隊員の遺書から選ばれた詩を歌った。『レクイエム・詩篇・響紋』三部作(40)は、明治以後の日本人が辿った歴史に対する「レクイエム」からの回答であった。「レクイエム」に関して言えば、もう一つ、『和解のレクイエム』(41)と題されたもので、「第二次世界大戦の犠牲者の思い出に」という副題をもった曲がある。ブリッテンの『戦争レクイエム』と同一のテーマによるものであるが、現代作曲家14名に作曲を委嘱した共同製作になっている。形式はラテン語の典礼文を用いているが、ドイツ語のプロローグ、英語のエピローグがあり、エピローグは作者不詳の墓碑銘からとったというもので囁くように呟いて終わるのは「レクイエム」がいま、何を私たちに考えさせようとしているか、を教えるものだ。これも現代なればこその作品である。死者のために、というより、生きている者の自覚を促す「レクイエム」で、三善晃の作品が目指す生者への哲学である。まだ音楽史の中で取り上げなければならないレクイエムは多数あるが、わたしが聴いた範囲でのレクイエムで集約してみた。これらはカトリックの立場で書かれた「レクイエム」であるが、プロテスタントの立場で「レクイエム」を書いた作曲家がいる。ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms(1833-97)である。