4.19世紀という時代とブラームス


 19世紀はベートーヴェンによって新しい時代を告げられる。18世紀の最後の年に、交響曲第1番ハ長調(作品21)、弦楽四重奏曲(作品18)、ピアノ協奏曲第3番ハ短調(作品37)が上演されてから、人々は幾らかは不慣れな音に戸惑いながらも新しい時代の到来を感じないわけには行かなかった。教養ある音楽愛好家たちは、教会や貴族のサロンから家庭に音楽の場を少しずつ移し始めていた。ヴィオッティ、プレイエル、シュポーア、ダンクラは好んでヴァイオリン二重奏曲、耳に優しい協奏曲をつくり、弦楽四重奏曲、同じく五重奏曲、管楽器のための独奏曲、協奏曲が日常性を持つようになった。市民社会は音楽によって日常化していった。ペスタロッチの教育哲学は音楽教育の必要を知らせ、ネーゲリ、プファイファーによって児童に歌唱教育を根づかせた。しかし、ベートーヴェンにとっては、19世紀は苦難の幕開きだった。1802年、彼は”ハイリゲンシュタットの遺書”を書いた。最初の成功は永く続かないかも知れないという不安は大きかった。カントの死(1804)は18世紀の終焉を語る上で象徴的なことであるかも知れなかった。あるいは19世紀は、ヘーゲルが『精神現象学』を完成させることで新しい時代を告知したとも言える。ベートーヴェンは、交響曲『エロイカ』で全ヨーロッパに存在感を示した。ベートーヴェンの新しい創造は、音楽批評の世界を開かせた。第5番の交響曲はなにがしかの解説を必要とした。E.T.Aホフマンはベートーヴェンの第5交響曲をクリティークし、新しく音楽批評の道を開いた。単なる印象批評から分析的な理解と鑑賞が始まったのである。人々の暮らしの中の宗教にも変化が見られた。フランス大革命後、宗教への否定的気分は宗教改革三百年祭を契機に人々の心に宗教的感情を呼び起こしたようである。南ドイツではカトリック音楽への見直しが始まり、ローマ学派への復帰の傾向は、レーゲンスブルクを中心に古典的教会音楽再興を試み、会衆用賛美歌も四声部に作曲されたりもした。ロンドンでは、中世音楽協会Plain-Song and Mediaeval Music Societyを設立し、グレゴリオ聖歌の研究を始めた。メッテルニッヒによる自由主義、国民主義的運動への弾圧はあったが、エネルギーは変えられなかった。フランスの七月革命、二月革命は人々を熱狂と興奮に導いたが、すべての市民を坩堝の中に投じたわけではなかった。ショパンはパリのブルジョア社会でカリスマ的存在であり、ピアノ製造者のプレイエルをスポンサーにして予約演奏会を行っている。少し後になるが、ピアノの改良は一段と進み、ブリュートナー、ベヒシュタイン、シュタインウエイ、ベーゼンドルファー各社は今日のピアノの基礎をつくった。(42)楽器だけでなく、ブライトコップ・ウント・ヘルテル、ペーテルス、ジムロック、ノヴェロ、リコルディ、シューダン、デュラン、少し遅れてオイレンブルク等の楽譜出版社は全集、大衆版の発行や小型総譜の出版を始め、今でも私たちに馴染み深い。(43)作曲者たちは演奏会活動だけでなく、楽譜出版と販売という新しい方法で収入の道が開けた。作曲者たちにとっては画期的な生活であった。
 しかし、作品、音楽のジャンルでは大きな変化が始まっている。ベートヴェンが完成した交響曲の分野を継承するのは、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマンと続いたが、ベートーヴェンが築いた山の稜線を超えることはなかった。ベルリオーズ、リスト、ワグナーも交響曲を手がけているが、大規模な交響詩というに相応しく、交響曲史を書き換えるまでは行かなかった。その中で19世紀後半に及んでドイツ的な意味で、もしくはベートーヴェンの衣鉢を継ぐというべきシンフォニストが登場する。ブルックナーとブラームス、それに続くマーラーである。交響曲という形式のみでいえば範囲は広がるが、ベートーヴェンが目指した内的なエネルギー、創造的理念の表現が−それこそがロマンティック−交響曲創作の目的であるとするならば、パウル・ベッカーのいうように、交響曲の歴史は「ベートーヴェンからマーラーまで」(44)ということになる。ベートーヴェンが交響曲第1番を初演したのが1800年、マーラーの交響曲第9番の初演が1911年。象徴的な百年であった。頑固なまでに厳格な定義に基づけば、交響曲の歴史は百年を僅かに超えるものになる。思想的な背景を用いるならば、カントの死から、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルによって大成したドイツ観念論の歴史に重なる。そして、観念論に象徴される哲学が、キェルケゴール、ニーチェにはじまる実存の哲学に席を譲り渡そうとする世紀末から20世紀の初頭で新しい音楽ジャンルに移行する。マーラーが二つの時代を繋ぐ架け橋の意味を持つものとすれば、私たちはブルックナー(1824-96)とブラームス(1833-97)に交響曲史の最後を委託することになる。しかし、この二人が交響曲作家として共通の視点に立っていたかということになると疑わしい。ブラームスが交響曲第1番を初演した年(1876)、ブラームスは43歳。そのときブルックナーは、交響曲第3番をワグナーに献呈していた。交響曲作家として明瞭に先を進んでいたが、ブラームスは、かなり激烈な言葉を用いて、ブルックナーを非難する。「(聖フロリアンの法衣をまとった)彼は知らず知らずのうちにひとを瞞すという病気にかかっている。それは交響曲という病だ。あのピュトンのような交響曲は、すっかりぶちまけるのに何年もかかるような法螺から生まれたのだ。」(45)それに対してブルックナーは言う。「彼(ブラームス)は、自分の仕事を非常によく心得ているが、思想の思想たるものをもっていない。彼は冷血な気質の人間である。(それに対して)私のほうは、カトリックの燃えるような熱い血をもった人間だ」(46)と。ドイツとオーストリア、それに宗教上の理由もあった。ブルックナーとブラームス、ワグナーとブラームスという対立の構図に火をつけたハンスリックは、ブラームスにウイーンのユダヤ教の富裕なサロンを提供していたこともあって、カトリックの人たちは『ドイツ・レクイエム』を「神のいない音楽」と非難した。しかし、ブルックナーは未完の交響曲第9番を献呈したのは「親愛なる神に」であった。それに二人とも活動の場をウイーンに置いたことによって両者の対立の構図は益々際だったものになり、互いに対立した作曲技法を持っていると自認することによって対立意識は激しくなった。結局、ブラームスがブルックナーの交響曲を、ブルックナーがブラームスの交響曲を褒めあうことによって和解したと言われるが、音楽的に見て二人が思うほど対立するものであったかどうか分からない。
 先ず二人のロマン性について考えてみる。ブルックナーの交響曲は、形式・構造の点で、古典的である。第3番のワグナーに献呈した作品以外では自分で付けた表題はない。第4番の《ロマンティック》も世人が付けたタイトルであって、自分でロマン性を求めていない。しかし、第4番以降の作品の長大、雄弁さはまさしくロマンティックでさえある。ブルックナーというと訥々として素朴、野人風と言われるが、私にはそう思えない。主題自身の息の長さ、繰り返す展開は曲そのもの長大ものにする。古典派の作曲家たちが意を注いだ調性は、主題自身の大きさによって主題間の緊張を和らげ、調性間の必然性は意識されにくくなる。ブルックナーの場合、主題そのものに目的意志があるようで、それこそがロマンティックな曲づくりではないだろうか。第7番(47)はブルックナーの宗教的情感のもっともよく現れた作品だと思うが、なかでも第1楽章は、作曲者の敬虔な態度がもっともよく表されたものだと思う。それは息の長い第一主題がヴァイオリンのトレモロ(原始霧Urnebelと呼ばれるピアニッシモの混沌)に乗ってチェロとホルンに語られる。所謂「ブルックナー開始」である。routineと言われているのを承知で聴いていても、悠然と音の波を構成していくさまは、これまでの古典派の作品にはないものだったと思いながら聴き込んでしまう。アレグロ・モデラートの速度記号はあるが、彼の場合、bewegter im kunftigen Allegro-Tempoが待っている。bewegtという語はブルックナーのロマンティックな気分の特徴である。言うなれば、poco a poco accel.というところだが、このbewegtが単なる運動、動きではなく、彼の魂の波動なのである。発想記号もpppからfffまでレーンジも広い。波動の山も大きい。作品も交響曲、ミサ曲、モテットと少しの室内楽曲でジャンルは狭い。しかし、彼には抑えがたいロマン性が感じられる。一つの作品に数種の改訂版があるというのもその一つの例である。よい例が第8番の場合だ。第1版(1884-85)、第2版(1886-87)、第3版(1889-90)、第3版を基にしたローベルト・ハース版(1935)、ノヴァーク版(1955)と少なくとも5種あり、さらに指揮者(クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー他)が一部手を入れたものを入れると原典版と言われるものも、完全性を求めて努力を惜しまない心性の表れとも言える。朴訥に見える言動、ザンクト・フロリアン修道院、リンツ大聖堂のオルガニストを歴任しながら、一方においてはワグネリアンだったことでも彼の中にあるロマン性はうかがえる。
 ブラームスは、性格的にもブルックナーと異なる。シューマンのもとに訪ねて、親しくシューマンと作品について交流していた初期においてはロマン的であった。しかし、シューマンとの関係が希薄になるとブラームスのロマン性は変化する。むしろ古典的な曲づくりに変化した。ブラームスのロマン性は歌曲に向かい、器楽曲の分野では形式、調性の緊張関係は古典的である。交響曲第1番がベートヴェンの第9番を継ぐものとして「第10番」と言われたのは、正確な意味ではない。ベートヴェンは「エロイカ」からロマン的になる。もし、ブラームスを古典派と呼ぶならば、第3番に入る前の段階でなければならない。しかし、その範疇に収まり切らない。それはブラームス自身にもロマン性があるからだ。単なる古典派にも収まらないから《新古典派》である。(それに楽器の問題もある。ブラームスの時代は、バロック時代のままの楽器が中心であった。楽器法から見れば古典派である。ガーディナー盤が古典楽器を用いて『ドイツ・レクイエム』を演奏しているのは特徴的である。(48))彼の音楽作品は幅広い音楽的ジャンルにまたがっている。交響曲、協奏曲、弦楽四重奏曲、その他の室内楽曲、ピアノ作品、歌曲、合唱曲、しかし、歌劇を含めて劇音楽はない。唯一、それに近いカンタータ『リナルド』(49)も男声合唱用の作品となって、劇作品にはならなかった。歌曲、合唱曲がロマン性の強い作品になったのは用いられた詩のロマン性にある。それはたとえ、聖書の言葉を用いていても、その言葉を選んだブラームス自身の情感に由来するからである。あくまでもブラームスが典礼に関わらずに主観的に聖句を選んでいる。従って『ドイツ・レクイエム』も躊躇わずに言えば、ロマンティックである。むしろブラームスの作品ではロマン派との接点になる作品ではないだろうか。また、歌詞がラテン語の典礼文でないことも勿論であるが、それ故に、『ドイツ・レクイエム』は非典礼的である。それでは何故ブラームスは『ドイツ・レクイエム』を作曲したのであろうか。