5.ブラームスと『ドイツ・レクイエム』
ブラームスがルター訳の聖書を用いるかどうか、ということより先ず、『レクイエム』を作曲しようとした原因は何だろうか。シューマンが彼のスケッチ・ブックに「ドイツ・レクイエム」と書いていたのをブラームスが記憶していて、シューマンの死後に作曲を始めたと言われる。(50)しかし、それなら妻のクララが知らないはずはない。クララはブラームスのスコアを見て大いに感動したということをどう説明したらいいのだろうか。
先ずシューマンについて言えば、彼はレクイエムを二曲作曲している。一つは『レクイエム』変ニ長調Op.148(51)であり、もう一つは『ミニョンのためのレクイエム』Op.98bである。(52)(シューマンにはもう一つレクイエムが作曲されている。『レーナウの6つの詩』の最後に加えられたカトリック古詩によるレクイエムであるが、私は聴いていない。)しかし、ラテン語の典礼文に基づいて作曲されたレクイエムは作品148のものが唯一で、「ミニョン・レクイエム」も「レーナウ・レクイエム」もドイツ語の詩によるもので、ミニョンはゲーテ、後者は勿論、レーナウの詩によるものである。作品148のレクイエムは1850年に作曲された。シューマン自身はプロテスタントであるが、カトリックを信仰する地域であるデュッセルフドルフの音楽監督である関係でカトリック典礼に相応しい音楽の必要があったのであろう。(かつてメンデルスゾーンが、この地で音楽監督をしているときに、カトリック典礼音楽を演奏することがあったのも一つの背景になっていると思われる。)それにシューマン自身、合唱作品の指揮に当たって、パレストリーナ、バッハ、ベートーヴェンの宗教音楽に深い関心を持っていたということも無関係ではないであろう。しかし、敬虔さと真摯な作曲態度に好感をもつもののどの部分も平坦になり、彼以前のレクイエムに感じられる曲の性格がややもすれば薄れがちになるのが残念である。むしろ、ミニョン・レクイエムの方がシューマンのロマン性に共感がもてる。これは多分にシューマンのミニョンという薄幸の少女に対する感情移入に理由があるのかも知れない。ということはゲーテの詩に対する思い入れの深さにによると思われる。シューマンは、いつかドイツ語によるレクイエムを作曲しようと考えていたと言われるが、ラテン語典礼文によるレクイエム作曲ということがなければ、果たしてそう言ったかどうかは分からない。
ブラームスの師であるシューマンがレクイエムに少なからぬ関心を寄せていたことは、ブラームスにとっても無関係ではなかった。とくにシューマンの死はブラームスにとって大きな衝撃であったはずだからである。
ブラームスがヴァイマールでリストに出会い、知遇を得たのだが、肌合いが合わなかったのか、直ぐそこを離れてシューマンの許を訪れたのが1853年、ブラームスが20歳の時であった。シューマンがこの青年を激賞し、ジャーナリズムに広めたことは有名である。しかし、翌年シューマンはライン河に身を投じるという痛ましい事件を経て、2年後、シューマンは死去する。ブラームスの『ドイツ・レクイエム』の作曲はここに始まる、と幾つかの資料が告げる。しかし、その足取りは遅い。1857-59年に第2曲を作曲して止まっていた創作は、65年に母の死によってそれまで準備されていた構想が一気に高まったように思える。66年第3曲、第1曲、第4曲、第6曲、第7曲が、最後に第5曲は68年に完成した。師とも人生の先輩とも仰いでいたシューマンの自死未遂と彼の最期は、ブラームスにレクイエム作曲の動機となったが、決定づけたのはブラームスの母の死ではなかったか。ブラームスの生涯を追うのが本稿の目的ではないが、ブラームスと彼の母、シューマンの妻であるクラーラとのめぐり会いはブラームスにとって人生における大きな出会いであったことは間違いない。単にレクイエム作曲の動機の一つと考えるにはことは大きい。ブラームスが誕生したとき、彼の母ヨハンナ・ヘンリーカ・クリスティアーネは44歳だった。教養ある女性だったが、幼児が嬉々として母に手を取られて公園を遊び回るには向かなかったかも知れない。この母より17歳年下の父ヨーハン・ヤーコプは楽士としてハンブルクを中心に巡業することが多かった。ヨーハン・ヤーコプは始め町でラッパをふいていたが、20歳の時、「ポケットにフルート、ヴァイオリンを小脇に抱え、頭陀袋にホルンを入れ、コントラバスを背負いハンブルク目指して修業時代を始めた」(53)若者だった。ハンブルクでは町の「アルスター・パヴィリオン六重奏団」のコントラバス奏者であったが、年上の、少し歩きにくそうにしている女性と結婚した。無理な結婚だったせいか、経済的にも苦しかったこともあって二人は円満とは行かなかったらしい。息子のヨハネスは生来の音楽的才能を期待され、町有数の音楽教師に弟子入りするが、優れた音楽家になることより苦しい家計を助けるために、その音楽的才能を酷使することになる。モーツアルトもベートーヴェンも、子どもの時にその才能を人前で発揮することを強いられたが、それは宮廷や貴族、上流階級の相手としてであったが、ヨハネスの場合は、港町ハンブルクの酒場でピアノを弾くことだった。物心ついたときから世間の母親達より年寄りじみた感じの母にヨハネスは終生敬愛することを忘れなかったが、両親の間は諍いが絶えなかった。少年ヨハネスはそれを苦にし、心を痛めていた。2歳上の姉エリーザベトは病気がちで、弟フリッツはのちにピアノ教師になるが兄ヨハネスとは仲が良くなかった。ヨハネスにとって家庭は憩いの場にならなかった。見かねて、父の友人で夏の間だけ引き取り、世間の少年らしい生活をさせたことがあったのも逆に言えば、少年ヨハネスにとって辛い現実を味合わせるものであったろう。ここでリースヒエンという愛称をもった少女エリーザベトに出会うが、少年にとっては「夏の思い出」でしかなかった。年老いた母親のことを案じながらも演奏旅行の途中でヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに出会い、世界が拡がる。シューマン夫妻に出会ったのも修業時代の終点に近くなったときだった。シューマンの家庭はヨハネスの家とは違いすぎた。クラーラはそのとき34歳、ヨハネスには眩しすぎる存在であった。ブラームスにとって衝撃的だったことは教養を内に秘めた美貌の才女であった。それはブラームスがこれまで知り得なかった世界である。年老いた母に育てられた貧しい青年は社交性に乏しく不器用であった。忽ちクラーラにのめり込むが、一旦はduという手紙の呼びかけに感激したヨハネスだったが、Sieのままでハンブルクに帰ることになる。このあともブラームスの前に何人かの女性が現れるが、婚約までして断わった背景には、彼の母に対する心理的なコンプレックスがあったと思われる。あまり幸福といえなかった母親のことを案じながら、しかし、その反対に理想の女性を求めつづけるブラームスにとって、母の死、父の再婚問題(76歳で亡くなった妻クリスティアーネの死後、59歳の父ヤーコプは再婚の相手を18歳年下の女性に求めた(54))は、ブラームスにとって女性、結婚、家庭、それに加えて無常観という難問を与えるものであった。いずれにしろ母の死は、人生を考える上で重要なテーマとなった。そして、これこそが『ドイツ・レクイエム』作曲動機以前の、つまりブラームス自身の個人的背景になった。