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姉歯事件について(建築構造計算書偽装事件)

平成17年12月3日
欠陥住宅を正す会
顧問 鳥巣 次郎

構造計算書偽装による建築設計によって、強度不足の建物が数多く存在することが判明した事件を、構造設計に携わった姉歯建築士の名から今 姉歯事件と呼ぶ。 この事件は、「欠陥住宅を正す会」(以下正す会と略称)の専門委員としてみると、以下に示すいくつかの問題を提起してくれるんで、これらに対して私見を述べる。
問題1、 欠陥建物を正す前提に、設計図書の正誤を加える必要の有無
問題2、 (マスコミで言う「震度5」で、「建物破壊の可能性」の説明)の是非判断
問題3、 姉歯事件以前の全ての構造設計、乃至建築確認に誤りは無かったとの前提は?
問題4、 民営確認業務の否定論から見る今後の対応
問題5、 姉歯事件と社会的風潮・・・「ゴメンナサイ」で全てを片づけてきた経緯。
等幾つかの問題が挙げられる。

問題1、

「正す会」における調査、鑑定では、建物の欠陥を指摘する前提に、
@ 物件(当該建物)に設計図書が完備されているか
A 設計図書は法6条の確認が済んでいるか
B 物件は設計図書内容と相違していないか
を挙げてから 欠陥を指摘して鑑定事項に進んでいる。
しかし今度からは、建築確認がある設計図書であっても、その内容が正しいかどうかの調査を要求する必要があるが、簡単に調査は出来ない。

今までは、確認済みの設計図書とおりに施工されることで、建物の安全の性能は法律的に保証されたことを意味するものであったし、殆どの欠陥住宅の事例は、設計図書を無視した施工の手抜きに起因したものであった。 然し 姉歯事件はこの通念をうち破って、設計図書 特に判りにくい構造計算は要注意との警鐘を鳴らしたことになる。

姉歯関連の建築は、建築確認された設計図のとおりに施工をしても、その建物には強度上欠陥が存在するとのことから、何故そうなったのかが今問われている。 これはあくまでも私見であるが、依頼主か又は施工者が、工費の低廉が安値販売に直結することから、目に付き難い構造設計の手抜きを考えたに違いなく、設計仕事の少ない当今のことで、姉歯が誘惑に負け、簡単には見抜け無い構造設計偽装に手をかしたのは、容易に頷ける。 理由としては、多少の構造手抜きをしても、構造設計上は、余力を計算に入れ、より安全を計っているのは専門家間では周知のことだから、建物倒壊に至る可能性は少ないと多寡をくくり、且つ現実が示すように発見が難しいことも偽装の要因であり、このことは永年施工に携わってきた者にとっても又周知の筈である。

過去の 「正す会」が関与した法廷においてさえ、明かに構造欠陥がある証拠(放射線撮影による鉄筋の欠落指摘)を提示しているに関わらず、相手側被告の
「今まで何度かの地震、台風にも遭遇しながらも何年間かを無事平穏に経過してきた事実は、建物に事実上の強度があるとの何よりの証拠である」
との主張を判事が取り上げた事例で見るとよく理解が出来ると思う。

このことは当今の消費者気質にも原因が見られる。即ち「安ければ得」の風潮で、倒産した者の投げ売りを喜んで購入するのもその例であるし、慾ぼけ相手に稼いでいるペテン師(知能犯の謂)が常に存在出来るのもその為である。
簡単には判らない構造強度を偽り、羊頭を掲げて狗肉を売る人、それを安いからといって買う人、姉歯関連のグループ達と消費者達は、この格好の見本だと言う言い方をしたら、不遜と叱られるだろうか。

問題2、

テレビも新聞も同じことを言っているが、建物強度を「震度5」で壊れる可能性の有無で判断しているようだが、これは判り易いからなのか。

言うまでも無いことであるが、「震度」は地震計が置かれている位置での地盤の揺れである。だから建物が建っている位置での震度ではないし、当然のことだが、地盤の種類でも地表の揺れ方に差がある。又 難しい説明になるが、厳密にはその建物に対しての、その地域での「震度5」が、どの程度 当該建物に外力を加えたことになるのかを明かにしたものではない。
更に 地盤の揺れで加わる建物への外力は、言うまでもないがその建物の総重量に比例するし、高さにも関係がある。建物の重心を下げる設計が必要なのもこの為である。

それから同じ揺れでも揺れる方向、横揺れか縦揺れかでも建物に加わる外力には、大きな差異がある。現在の建築構造計算基準の考えでは、地震や台風に対しては、横揺れを前提とした想定で、0.2とか0.3とかの数値を入れて計算している。
神戸地震の被害が「震度」に比例して大きかったのは、縦方向のゆれが大きかった故と聞いている。

故に 建物強度に関してのマスコミ報道の解説では、取りようでは殊更に不安を煽っているかに見えるのであるが、考えようではより安全側な表現方法とも言える。
「震度5」の地震があれば倒れるかも知れないといわれたら、用心をするだろうとの意味である。

先の問題1の項でも触れたが、姉歯事件の当事者すべてが、構造計算偽装について、多寡をくくっていたとの思いが見えるのは、余力への過信があって、法廷における判事でさえ常識的に、建物強度には余力があって、それが安全側に作用するから、容易には倒壊に至らないと信じていたのに違いないのである。だから、警鐘を鳴らす意味では効果があるかも知れない。

然し マスコミの報道は、いつもの例によって、単にセンセーショナルに煽ることだけが目的の記事を提供しようとしているのではないのか。

それは、この姉歯事件が示唆する現在の一部建築界の、製造者も消費者も含めた、安易な手抜きによる安値提供の容認は、行政のあり方、指導方針にも問題があったと見るべきなのに、マスコミはなんら触れようとしないのは何故なのか。知らないからなのか、又知ろうとしないからなのか。

問題3、

今までは建築基準法6条の確認済みとは、設計内容が基準法に決められたとおりである証明書と受けとっていたが、今回の姉歯事件は民間大手の検査会社が構造強度の偽装を放任した感がある。これはよもやと言う油断がなせる業なのか、それとも単なる検査手抜きの結果からかは判らない。然しこの為に民間は安心出来ないから、従前のように官の検査態勢にもどるべしとの声が聞こえる。
ここで可笑しいのは、従前も官の一手処理ではなかった筈である。何故なら一手に処理出来るだけの技術者が居なくなっていたからである。技術者の養成には金と暇が掛かるからと、日本における官界での技術者軽視の流れがそうさせたのだと思う。

神戸地震は建築と言うものにも数々の教訓を与えてくれたが、今回の姉歯事件は、当事者の不届きを攻めるあまり、過去の不届き建物への目を反らせることになりはしないかを恐れるのである。姉歯以前は全て正しかったと理解して良いのかである。

社会正義の存在を信じるならば、先に法廷での事例を述べたような、何時倒壊しても明かな不良建築物の存在を許すことなく、余力があるからとの過信から放置するようなことをしないで、これら過去の不良建築に対しては、公共福祉の観点からも是正が必要であるのだが、個人の財産権を擁護するためには放置せざるを得ない、といった愚は避けたいものであるが、現状では法律上 それは不可能ということになりそうである。

これらの啓蒙をするに大きな力を発揮できるのがマスコミだと思っているが、記事としては面白くなく、かつ 取りようでは不安を煽る不届きな考えともとられる。 調査に費用も掛るから担当の上司は喜ばないし、悲観的な見方では採用されることもないとも思う。

又 個人情報保護法も、知り得たこれらの事実を暴くのを困難にさせている。

「震度5」で倒れないのに、ある日突然「震度4」で倒壊する可能性があるのが、余力が無くなった不良建築であって、個人の財産権に守られて可成り沢山存在すると思うのは、過去の数々の、経験による事例から知っているからである。

問題4、

建築確認業務を民営にしたのは誤りかとの説がある。

誤りかどうかは別としても、そもそも 確認業務民営化の考えは、建築技術の高度化、行政だけで対応できる技術者の不足、建築界の民活に寄与、確認業務の時間短縮、天下りの場所提供、予算の合理化と言った発想からであることは、頷ける理由であって、反対の意見は無い。

だから、今更時代に逆行して建築確認業務を民から取り上げて、官に移すことは、技術者の数、対応時間、予算面から見て殆ど不可能に近いと思える。

更に又 仮に官による確認業務に戻ったとして、それは過去の全ての確認業務に誤りが無かったとの事実の裏付けがあったことではない。民だから間違って、官なら間違わないという民間蔑視がそう言わせるのだと思うが、それが過信であったとしても、誤った場合の是正が無いのも歴史が証明している。

問題5、

姉歯事件では、犯人の罪が軽すぎるのを心配して、もっと重くするべきとの動きがある。恰も 罪が軽いから事件が起こったような発想からであろう。

山一證券の事例が一番印象に残っているが、此の種の責任者は「ゴメンナサイ」「もう二度としませんから許して下さい」と言った、極端な場合には頭を下げるだけではなく、ポロリと涙を落として謝る方法をいっている。
此のての詫び方が現今代流行のようで、近くはJRの福知山線脱線事故でもそうであったし、上は国民の選良である代議士でも、大銀行の頭取でも同じ手法を使って詫びることで済ましているように見える。

古い話を持ち出すと、徳川時代では腹切りで詫びたし、明治では一切を無にすることで詫びの形を作ったと記憶している。

だが 今では人を殺しても弁護士を雇って如何にして罪を軽くするのかが、通常の習いであり、誰もが実行している。

姉歯関係者も、多分いまはどうして罪を軽くするかを考えていると思う。後始末は自分で出来ないといって、他人頼み、極端には国家救済を求めるといった不誠実さである。

本来 詫びて済むことでないのは誰でも判っているのに、それでも詫びられると許しているのが日本人の度量の大きさなのか、諦めが早い淡白さによるのか、またはそれが流行りなのか、事実の収まりはそのようで、ごく短時間で忘れてしまっている。

今回も同じ繰り返しの可能性があるが、真剣に考えると大問題なのであって、簡単に許すとか忘れてよいことではない。刑罰を重くして再発を防ぐだけで良いのか。

姉歯事件は近来稀な大事件に発展することは疑いが無い。行政側もこれほどの被害者がでると銀行の不良債権処理の手助けと同様 税金を使った救済を講じるようである。
姉歯も木村もイーホームズも偽装の関連者は、多分最後は例のゴメンナサイで済まされるのだろうことは間違い無さそうである。

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