管理者: 水谷 喬次
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COLUMN'06

「「モッタイナイ」精神で」

「ノスタルチックな一日」

2006年8月21日

「「モッタイナイ」精神で」

運転席の座席を再利用しました

我が家には物置があるが、この中には車の整備や修理に使用する工具とか、使用していない部品、その他、粗大ゴミになりそうな諸々のものが所狭しと詰め込まれている。家族からも以前から「何とかしたら〜」と言われていたのだが、この夏の休暇を利用して整理することにした。

その中に、クルマを購入後にシートを変えたので、それまで付いていた運転席のシートが保管してあったのだが、これをどうするか以前から思案していた。粗大ゴミで出すにはもったいないし何よりも今では料金もかかる。そこで、幸いというかパソコン使用で使っていたイスがだいぶ「ボロ」くなってきたので、この際、パソコン用のイスに転用してみた。それが上の写真だ。なかなかの出来映えだと自画自賛している。

このコラムのタイトルの「モッタイナイ」は2004年にノーベル平和賞を受賞したケニアの副環境相、ワンガリ・マータイさんが世界に広めようと呼びかけている言葉。ゴミを減らし、循環型の社会を作っていくためのキーワード「消費削減(Reduce)」「再使用(Reuse)」「資源再利用(Recycle)」の『3R』(「発生回避(Refuse)」「修理(Repair)」を加えて『5R』)を表す言葉として、注目を集めている。が、注目を集めること自体が今の社会環境を表している様な気がしてならない。今の時代、世の中には物が溢れ欲しい物はお金さえ出せば手に入る時代になってきている。まだ使える物でも新しい物が出てくると買い換えてしまう。

私事で恐縮だが、子供の頃は物をもっと大事にしていたような気がする。野球のグローブはワックスがけをしたし、破れかければタコ糸で縫ったりしていた。また、兄弟がいれば「お下がり」は当然であった。これらのことはごく自然で何の違和感もなかった。自然と「もったいないな〜」という感情が湧いてきたものだ。社会環境の変化で今の子供達(大人も含めてだが)にこれを求めるのには異論もあるだろう。しかし、日本という国、あるいは地球全体で考えると資源は無限ではなくいつかは無くなるのかもしれない。だとすれば、これからは「今ある物をとことん使い倒す」「不要な物は買わない」というようなことが重要になってくる。我々の時代だけでなく、子々孫々の代まで。そんなことを思いながら、夏の一日、物置の整理をした。

2006年4月24日

「ノスタルチックな一日」

日産R382先月の26日に富士スピードウェーにおいて、タイムマシーン・フェスティバルが開催された。富士スピードウェーに行くのは何十年ぶりだろう?。来年の10月にはF1の開催も決定した。相変わらず富士山が目の前にそびえ立ち、ロケーションとしては世界のサーキットと比べても決して見劣りしていない。サーキット自体も改修され、見違えるようになっていた。この富士スピードウェーに'60年代〜'70年代の日本のモータースポーツ史を彩った名車、名ドライバーが集結した。

車輌では、日産R382、トヨタ7、いすゞ・べレットR6スパイダー、ポルシェ906、マクラーレンM6BCan-Am Car等のスポーツカー、マツダ787B、ポルシェ962C等のグループCカー、'60年代から'80年代に活躍した、いすゞ・ベレットR6スパイダースカイライン2000GT、トヨタ2000GT、ホンダ“エスハチ”、パブリカ、トヨタスポーツ800、スカイラインGT−Rやロータリー車、レビン、トレノ、サニー等のツーリングカーが集結。
ドライバーでは、黒沢元治(以下敬称略)、星野一義、長谷見昌弘、高橋国光の日産勢、細谷四方洋、高橋晴邦、鈴木恵一、津々見友彦、田村三夫のトヨタ勢、片山義美、寺田陽次郎、武智俊憲のロータリー勢、いすゞの浅岡重輝、グラチャンで活躍した高原敬武、その他、ヒロ松下、関谷正徳ら、多くのドライバーも参加していた。

今回、ピットへの立ち入りも自由でピットロードの規制も厳しくなく間近でマシンやドライバーを見ることが出来た。私がロータリー車でラリーを始めた時にお世話になった寺田陽次郎マクラーレンM6B 運転席にいるのは高原敬武(当時は月島のマツダオート東京のスポーツ相談室に在籍)は知らぬ間にスキンヘッドになっていたし、武智俊憲も頭のてっぺんがかなり薄い。元トヨタワークスの細谷四方洋(第1回日本グランプリ400〜700tクラスで3位)にいたってはどうみてもレーシングドライバーには見えない。巨体を小さなパブリカに押し込んでいた。
この日の圧巻は日産R382(黒沢元治)をはじめ、いすゞ・べレットR6スパイダー(浅岡重輝)、ポルシェ906(津々見友彦)、マクラーレンM6B(高原敬武)の4台が実際にエンジンに火を入れてサーキットを疾走!。数周のデモレースを行った。ピットロードの金網にへばりついて見ていたのであるが、'69年の日本GPで優勝した6リッターV12の日産R382(櫻井眞一郎率いる日産自動車研究所特殊車輌部が開発した、公称600psを発揮するグループ7マシン)が優勝ドライバーの黒沢元治のドライブでスポルシェ906トレートをすっ飛んでいく様はなかなかの迫力であった。結果はなんとポルシェ906のみチェッカーを受けた。さすが“耐久のポルシェ”といったところか。

惜しむらくは、トヨタ・ニュー7の実走行とドライバーでは“伝説のレーサー”生沢徹の顔が見れなかった事。トヨタ・ニュー7は'68年から始まった“トヨタ7プロジェクト”の最後を飾るマシーンで、'69年の日本GPでR382に完敗した雪辱を晴らすベく開発されたまさにモンスター級のマシーン。ミッドシップに搭載される5リッターV8DOHCエンジンにターボチャージャーが装着され、最高出力は844psを発揮する。
この'60年代の日本グランプリは、トヨタと日産のメーカー対決が一番激しかった時。日産のR381に対しトヨタはトヨタ7を開発し対抗してきたが、トヨタが日産を倒す事はデモレースの後、車両提供者と握手する津々見友彦。本来ならここは生沢徹なのだが・・・・。遂になかった。このビッグマシンの激突に沸いた'60年代日本グランプリは、1969年以後2度と開催される事はなかった。このためトヨタ・ニュー7はそのポテンシャルを発揮することなく、その勇姿は幻となってしまった。あまりにも急激なマシン開発費用の増加と度重なるトヨタ専属ドライバーの死亡事故、公害問題やオイル・ショックなども重なりトヨタも日産も風船がしぼむように活動を中止してしまった。

生沢徹に関しては、やはり、'67年の第4回日本グランプリで高橋国光がドライブするR380-2と絡んだ“S字コーナー”での痛恨のスピンが記憶に残る。この時1速にシフトミスし、エンジンは完全にオーバーレブしたのだがポルシェのエンジンはまだ動いていたという。

往年のドライバーによるトークショウ。なぜ彼がR380ではなくポルシェに乗ることになったのか。彼がポルシェをドライブしたいきさつというのも、彼は前年の日本グランプリ終了後、突然プリンスを退社し単身、“ヨーロッパ修行”に行っていた。このレースのためヨーロッパのF3レースの数戦をキャンセルして帰国。この「第4回日本グランプリ」も当然“日産チーム”より出場できると思っていたのだが日産チームは、高橋国光らを抱えており、レースでも旧プリンス系のドライバーである“砂子義一”と“大石秀夫”の2人がおり、とても彼を入れる枠はなかった。 そこで彼は、“ヨーロッパ”の経験を生かし当時まだ誰もやったことがない“スポンサー”を探すことを始めた。それは自分を企業に売り込み、その収益により出場車を手に入れるのが目的。彼は、「コカコーラ」の独占に対して今回がラストランとも言われている767B。ドライバーは“ミスタール・マン”寺田陽次郎。市場進出を狙っていた「ペプシコーラ」と契約にこぎつけ、当時の若者に大人気だった「VAN」とも契約に成功。資金調達なった彼は、念願の「ポルシェ・カレラ6」をミツワ自動車から手に入れることができたのである。結局レースは、彼の初優勝で幕を閉じた。レース後、表彰式で2位と3位の選手がこのレースのスポンサーであった「コカコーラ」を飲んでいたのを彼は断り、缶入りの「ペプシ・コーラ」を受け取り飲んでいたという。

ピットロードを出入りするレースカー、オイルの匂い、腹に響くエキゾーストノート、ブリジストンでもミシュランでもなくファイヤーストンという名前のタイヤ。メカニック達の必需品であるキャブレター用のジェット類。40年前にタイムスリップした自分がそこにいるような錯覚を覚える。こんなノスタルチックな1日が年に1度はあってもいい。

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