紀行文『中国行きのフェリーボート』3/17更新 映画評論フリーペーパ『劇場分子』 on WEB(試供品)8/7更新 連載世界の名物映画館 |
世界の名物映画館 4 中国
中国で映画を鑑賞するのは台湾や香港と困難かもしれない。日本では長年の不振からシネマコンプレックスというハードの改革、『リング』などをはじめとするジャパニーズホラーというソフトのヒットなど明らかに変化した。しかし、中国では改革開放政策という国を揚げての激変による経済の発展がVideo CD の急速な普及を引き起こした。それにより外で映画を見る人は減ったのではないだろうか。業界はあまり活気があるとはいえないと私は考えている。その根拠としてフィルム上映の映画館が減っていると思われるからである。日本ではフィルム上映以外にどんな映画館があるのかと思われるであろう。ここで私の個人的経験を紹介することにしよう。映画好きの私は海外に旅行に行っても、ひまがあれば極力映画館に足を運ぶことにしている。中国の昆明で映画館に行くと、改革開放政策の負の落とし子売春婦が集まってくるの驚く。いや、売春婦と私が勝手に考えているだけでただのタカリかも知れない。いずれにせよ私は中国語が分かるので、彼女たちは「一緒に映画見ようよ。」と言っているのは聞き取れるのでそこまでは間違いないのだ。そのいやに化粧の厚いお姉ちゃんを振り切り、切符売り場に向かうと「激光片」という文字に目が止まる。そのまぶしそうな作品を気にもせず買う。中に入るとスクリーンにプロジェクターを用いたレーザーディスクが投影されているではないか。それもプロジェクターが悪いのか画面の状態は始終ピントが甘く大変疲れたことを覚えている。まさに眩いばかりの「激光(レーザー)片」といったところか。 しかし、劇場側のこのような合理化に至った理由も分からないではない。改革開放政策により、大型テレビやVideo CDの普及、さらに他の娯楽産業、カラオケ、ボーリングなどの急追により中国ではもはや映画は娯楽の王さまという時代はとうに過ぎている。それゆえ、コスト削減に「激光片」、「録影(ビデオ)片」など、映写技師を要しない人件費削減合理化は仕方がないかもしれない。しかし、ここにひとつのジレンマが存在する。それはスクリーンがあるいはビデオの場合はモニターが大きい以外に映画館で見ることのメリットがないということである。合理化に踏み切って削減した経費と観客の推移の結果はどうであったのか非常に興味があるところだ。 また中国は改革開放政策の負の産物、「闇経済」が映画業界にも影を落としている。それは違法コピーソフトの氾濫である。中国では香港のロードショー公開の映画が中国国内での正式公開より、違法Video CD コピー版が早くかつ簡単に手に入る。夜市(夜店)、地攤(フリーマーケット)など至る所といっても過言ではない。違法コピーソフトについては政府も取り締まりを強化しているものの効果はあがっているとは思われない。 さらに中国の映画業界が活性化しない理由のひとつとして、露骨なまでの表現の自由に対する干渉を例に挙げよう。まずは前回からの予告した性表現に関してだが、女性の胸もNGであるからヘヤーなどもっての他である。それゆえ、その手のモノが大変好きである私としては、基本的に中国はストイックで困ってしまう。裏があるような気がするが残念ながら発見することは出来なかった。しかし、中国が性表現のみに規制をかけているならば、日本と程度が異なるだけである。その程度が肝心なのだという意見もあるかもしれないが、一番問題であると私が考えていることは、むしろ天安門事件以降、政治思想による規制が強化されたと点である。それを述べる前に少し遠回りになるが中国の国内での映画の現状を先に補足すると、中国映画は最近では日本でも陳凱歌や張芸謀の出現により注目はされているが、中国国内では評価は余り高くない。ハリウッドメジャーや香港映画のほうが明らかに人気がある。その理由として中国では観客動員が見込めるものはフィルム、リスクが高いのは「激光」、「録影」といったシビアな選択があるからだ。私は今までフィルムの国内制作の映画は一度見たきりで後は香港制作が一回、他は全て「激光」、「録影」であった。評価が上がらない理由として考えられることは、例えば『覇王別姫』を例にあげるとこの映画はカンヌのグランプリ受賞作で海外では評判も高い。しかし、カンヌのグランプリであっても中国国内では正式公開は海外に遅れること1年、2年は当たり前である。この作品の場合公開が遅らされた理由として考えられる点は「文革」を批判的に捉えている点ではないだろうか。天安門事件以前、ケ小平は『芙容鎮』などを初めとして文革を批判的に捉えた作品を、自身が文革の誤りを指摘して中央に返り咲いただけあって寛大であったと感じる。しかし、天安門事件以降は文革批判身に纏ったケ小平批判と勘ぐってか、中国的なマイナス面を批判する映画、張芸謀の『大紅燈籠高高掛』も国内正式公開が海外より遅れること1年以上であった。これではどれだけの方が共鳴してくれるかは定かではないが映画は鮮度が命であると私は考えていて、この様な露骨なまでの表現の自由に対する干渉は国内映画の力を弱めてしまう。 現にその兆候は少し現れているのではないだろうか。陳凱歌は拠点をアメリカに移しているし、張芸謀も鞏利と組み香港合作など外の映画界と交流を広げている。人材の流出の勢いは留まることを知らない。もちろん膨大な人口を抱えている国であるから、流出分を補うに余りある人材は潜在的にはいるであろう。しかし、育成より流出のスピードの方が速いと考えるのは私だけであろうか。また先に述べたことの繰り返しになるが、改革開放政策以降、外からモノとカネの膨大な流入により、価値観の急激な変化にも着目すべきであろう。自国の文化を軽視し、アメリカの映画や日本のテレビドラマに憧れるといった傾向は顕著な気がする。日本もかつてはそうであったと私は考える。まず、模倣から始まり、模倣を疑問に思うパワーが新しい映画、文化を築くであろう。今中国はその過度期で模倣に終わっているような気がする。あるいは私が不勉強なためか、次世代を感じさせる映画にまだ巡り会えていない。 しかし、中国の奥深さを考慮すると私の考えも杞憂に終わるかもしれない。少し前中国の時代と騒がれた時があり、バブル崩壊とともに一段落したが、中国、香港、台湾、華僑のネットワークは進んでいるとも考えることが出来る。例えば台湾の国策映画会社がアメリカの李安に投資したり、香港合作に張芸謀が参画したり、明らかに中国系映画界は日本と異なり、ダイナミックに変化している。あとは中国政府がこのような映画文化に対して、表現の自由に対する干渉を極力避け、人、モノ、カネの流れの規制をどこまで緩和できるかで、新しい中国の映画文化のパワーというものが育つのではないだろうか。 それによって、流出した人材が帰ってきて若手の育成にあたり、また優秀な人材が外に出て才能を磨きまた帰ってくる。そのような好循環が起こったとき中国映画がますますおもしろくなると期待しているのである。まだまだ興味は尽きて止まない。
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