簡略列国志
簡略斉国志 −春秋編−
1.黎明期
斉の国の始祖・呂尚は、舜や禹に呂の地に封じられた姜姓の族の子孫であったが、彼の代にはすっかり没落してしまっていた。呂尚自身も長らく貧しい暮らしをしていたが、晩年になって渭水のほとりで釣りをしている所を周の西伯(後の文王)と出会い、周に仕えることとなった。西伯の祖父・太公が待ち望んだ賢人なので、太公望と呼ばれたと言う。呂尚は文王・武王の二代に仕え、無道な殷の紂王を倒すのに大功を立てた。
牧野の戦いで殷の軍に勝利して周が天下を平定すると、呂尚は山東半島の斉の地に封建された。しかしその都となるべき営丘の地を、やはり姜姓の莱族も狙っていた。呂尚は莱侯の率いる部族を打ち破り、斉の国を開闢したのであった。彼は礼制を簡略にし、商工業の発展に努めたので、斉は大国となっていった。
詳しくは……「太公望、斉の国を開く」 ・「太公望、莱侯と営丘を争う」
2.覇者・桓公
その後七代目の哀公が周王に煮殺されるということがあったものの、斉の国は順調に発展していき、釐公(僖公)の子の襄公まで斉侯の位が受け継がれた。しかし襄公は暴君であり、魯の桓公に嫁いだ自分の妹と密通を重ね、それが魯公に知られると彼を暗殺するという事すらやってのけた。
あまりの横暴に彼が家臣に殺されると、外国に亡命していた彼の弟の公子糾と公子小白が、自分が新たな斉侯になろうとして帰国の途に着いた。結局公子小白が先に斉に到着して桓公として即位し、公子糾は処刑されることになった。公子糾の守り役の管仲も処刑されるはずであったが、彼の親友であり、桓公の守り役であった鮑叔の命乞いによって罪を許され、桓公に仕えることになった。
桓公は管仲の補佐を得て、当時南方の楚の脅威に怯えていた中原諸国を取りまとめて覇者となった。いわゆる春秋五覇の第一である。桓公は周王を尊び、信義に基づく行動をし、同盟国を助け、山戎や楚を討って諸侯からの信望を得た。
しかし次第に傲慢な振る舞いをするようになり、「封禅の儀を執り行いたい。」という無茶を言い出す始末。そして管仲が亡くなると、彼の忠告に背いて易牙・公子開方・豎(じゅちょう)の三人の奸臣を重用し、その為に桓公の息子たちの間で後継争いが起こることになった。桓公はその争いの最中、ひっそりと餓死してしまった。
詳しくは……「襄公、魯の桓公夫人と密通す」・「管鮑の交わり」・「覇者・桓公」
「傲る桓公、封禅の儀を行わんとす」・「桓公薨じ、五公子相争う」
3.権臣たちの時代
桓公亡き後、彼の息子である公子無詭・孝公・昭公・懿公・恵公が相次いで即位した。彼らの後継争いによって斉はすっかり国力を弱めてしまい、覇者の地位も宋の襄公や晋の文公へと移ってしまった。恵公の代にようやく落ち着きを見せ、周辺の莱族討伐を開始し、晋から覇権を取り戻そうという機運が生まれたものの、次の頃公の時に晋の韓厥・郤克らの軍に打ち破られ、逆に晋に入朝する羽目になった。
その子・霊公は晏弱らに莱の共公の討伐を命じ、莱国を滅亡させてその地を斉の新領土とし、太公望以来の宿願を果たした。しかしその末年には、都の臨(りんし)が晋軍に包囲されるという事態も起こった。この頃になると崔杼・高厚ら権臣が政権を握るようになった。次の荘公は崔杼の妻と密通を重ねたことで彼に恨まれ、弑殺されてしまった。崔杼は荘公の弟・景公を立てて専権を振るったが、同僚の慶封に攻められて自殺した。しかしその慶封も悪政を行ったので、大夫たちに追放された。
その後、民衆の信望が厚い晏嬰(晏子)が景公を補佐することになった。景公はもともと凡庸な君主であったので、事あるたびに晏嬰は主君に諌言した。そのおかげで斉の政情はしばし安定する。しかしその陰で、桓公の代に陳から亡命してきた田(陳)氏が民衆に人気取りを始め、いずれ田氏が斉を乗っ取るだろうと晏嬰は嘆息した。
詳しくは……「桓公の子、相次いで即位す」・「蕭桐叔子、びっこの郤克を笑う」・「莱国の滅亡」
「崔杼、其の君を弑す」・「崔杼の破滅」・「晏嬰、国の行く末を憂う」・「夾谷の会」
4.田氏の簒奪
その予言通り、田氏は景公が死に、その幼子の晏孺子が即位してから蠢動を始める。まず田乞は大夫たちと語らって、代々斉に於いて卿の地位に就いていた高氏と国氏を滅ぼし、晏嬰の子・晏圉も魯に亡命せざるを得なくなった。その上で晏孺子を廃し、その兄を悼公として即位させた。
それ以後田氏が国政を取り仕切るようになり、君主の廃立も田氏の思うままになった。田乞の子・田常(田恒)は、主君の簡公が政治をお気に入りの監止に任せていることを不満に思い、一族が一致団結して監止を殺したばかりか、簡公をも捕らえて処刑してしまったのである。
その後も斉侯の位は平公・宣公・康公と受け継がれたものの、既に田氏の勢力は公室を凌ぐほどになっている。田常の曾孫・田和が康公が政治を省みず奢侈に耽っていることを理由に海辺の町に移し、自分が代わって君主として即位した。これが田斉の太公である。田氏は周王からも正式に諸侯として承認され、ここに太公望以来の呂斉は滅亡したのである。