ちかごろ思う事

 

県立愛知看護専門学校第2看護科

平成16年1月9日

県立愛知看護専門学校第2看護科は昭和52年に開業医の看護婦不足を補う目的で開校された昼間定時制の学校で、当初、学生は地域の病医院に住み込みで勤務するのが条件になっていた。
私は開校3年目から3年生に小児疾患を教えてきた。すなわち1回生からずっと関わり続けてきたわけである。そして昨年25回生を迎えた。なんと四半世紀も教えてきたことにある。また、3回生のIさんから住み込み学生として来て貰い、22回生のOさんまで9名の人が巣立っていった。しかし、時代の変化と共に学校も変化し、住み込みどころか勤務も義務づけられなくなってきたので当院も方針を変えざるを得なくなった。それでも大病院へ巣立っていった人が戻ってきてくれたり、新たに人が来てくれたりして現在卒業生が3人いてくれる。
25年前、開業間もない頃、今度出来る看護学校の小児疾患の講師をせよと指示され何となく引き受けてしまった。当初、小児疾患は45時間もあった。すなわち90分授業が22回とテストが1回である。その他に2月に1科、2科合同で国家試験用の特訓を2回ほど行った。5月から授業が始まるとほとんど1年中学校へ通っている感じがした。
開業すると得られる知識が偏ってしまいあまり遭うことのない疾患などはどんどん忘れたり時代遅れになってしまったりする。しかし、毎年改訂されるテキストを年に1度全般に渡って読むということは知識の穴を無くすという点では役立っていたように思う。
また国家試験の問題を数年に渡って読むと次回の問題がある程度予測でき補講の時「この問題は国試に出るから」と予測して当たったこともしばしばある。本人は大得意であったが、5月頃に卒業生に偶然会ったときに「おい!あの問題出たろう!」と言うと「そうですかあ?」と気のない返事。あのトップの子でもあの程度だからあとは全然覚えてないか!といたくがっかりしたことを覚えている。
1科とはいつも対抗意識があり、それが私にも乗り移り模擬試験の結果は1科と比べてどうだった?小児疾患は絶対負けるな!と叱咤激励していた。そしてだいたい2科が勝っていた。
そんな感じで10年ほどたった頃、突然小児疾患の時間数が15時間と3分の1に減った。でも、教科書は同じですと言われ、なんで?と聞くとゆとりのある授業をするためです。「7回で教えていたことを22回で教えるのがゆとりのある授業じゃないですか?」と聞くと「そういう考え方もあります」「じゃあ、どういう考え方をするとそうなるのか?」「・・・・」
当院住み込みの4年生の学生が「先生、生まれて初めて俳句を作ったからみて下さい」「俳句!?どんな?」「ホトトギス 空に向かいて 声放つ」「これはホトトギスが梢にとまって鳴いている感じだろ?あの鳥は鳴きながら飛ぶんだよ」とまじめに答えてしまったが「なんで俳句なんか?」「授業です」「国試前に俳句の授業なんかあるの?何時間?」「30時間です」なんで国試前の学生に小児疾患の倍もかけて俳句なんか詠ませるんだ!それがゆとりある教育なのか?そうです!老人看護には大切なのです・・・・
さすがにこれではまずいと思ったのか、徐々に時間数は増え昨年は30時間に復活した。
 その後、時代は変わり、住み込みの義務がはずれ、勤務の義務もはずされるようになってしまった。幹部クラスの講師には、開業医を差別する傾向が強まり、卒業生もあまり開業医に勤務することがなり、初期の目的が薄れてきた。ある校長は開業医なんかは定年退職した看護婦が勤めればいいんだと言った。ばかやろう!そんな婆が何の役に立つ!3日ももたずにくたばっちまう!
その頃から辞め時だなあ思っていたが、ずるずるここまで来てしまった。
何故か?若い学生と接することが楽しかったからのような気がする。
ぶつくさ文句ばかり言っていたが、彼女たちから何らかのパワーを貰っていたように思う。今年は最後の学年と思って授業に臨んだが、小児疾患半分、鳥の話半分になってしまった。でも彼女たちの雰囲気は良く、試験の結果もびっくりする程良くでき、最後にこの学年に当たってよかったなと思った。また最後の授業前に旧姓Tさんじゃなく先生,Y先生に偶然行き会えて、卒業生が母校に戻って活躍する姿を見られたのもよかった。
第2看護科の卒業生、学生諸君長い間ありがとうございました。

Akihiko Fukada